人気力士・横綱として
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現役時代より慈善活動にも熱心で、「大鵬慈善ゆかた」などを販売して、その収益は、1967年(昭和42年)から1968年(昭和43年)まで老人ホーム・養護施設へテレビを寄贈、翌1969年(昭和44年)から2009年(平成21年)まで、日本赤十字社に「大鵬号」と命名した血液運搬車を贈った。テレビはNHK文化事業団に36台贈呈。血液運搬車の寄贈台数は1969年(昭和44年)から1976年(昭和51年)までと1979年(昭和54年)から2001年(平成13年)まで毎年2台ずつ、2002年(平成14年)から2009年(平成21年)まで毎年1台ずつで、2009年(平成21年)9月に70台目(自身の年齢と同数)の贈呈を終えたところで活動も終えた。 若い頃は大変な酒豪で、一日の酒量が一斗(18リットル)に達し、ビールを一升瓶で20本(36リットル)飲んだこともあったという。6連覇をかけていた時期の雑誌『相撲』の記事では「大鵬の兄弟子、熊ヶ谷親方(元幕内海山)はかつて7升の酒を飲み干したと伝えられるが、本格的に腰を据えて飲めば、大鵬の最高記録は7升程度のものではなかろうか」と、大鵬の酒量に関する主張は典拠によって異なる。塩辛い物も好きであり、酒のつまみに大ぶりの明太子を2腹も3腹も食べながら飲んだと伝わる。現役時代には同い年の親友(誕生日が9日違い)である王貞治と夜通し飲み明かしたこともあり、酔い潰れた王が一眠りして起きると大鵬が変わらないペースで飲んでいたという。しかしその飲酒量の多さが後に脳卒中などの病気で、健康を害した大きな原因と言われている。 色白の美男だったためか、若い頃の人気は非常に高かった。男性相撲ファンに絶大な支持を誇った柏戸と比べて大鵬は女性・子供からの絶大な支持を誇った。大鵬の取組の時だけは銭湯の女湯ががら空きになったという。全盛期には大鵬にあやかって「幸喜」と命名された男児が多くいた。俳優・劇作家・脚本家である三谷幸喜もその一人である。 現役時代、パリの新聞で「グランドフェニックス・タイホー」ともてはやされた。トニー・カーティスからファンレターを貰ったこともある。 二所ノ関部屋後援会員であったマダムがオーナーを務めていた飯倉の「レストラン竜」で提供されていたサーロインステーキを好んで食した。本人曰く「パリやスペインではこんな肉を食べさせるところはないよ。牛の質が違うのか知らんが、うまくないねえ。まるで靴の裏底を噛んでるようなものもあったぜ。(中略)一口この肉を食べてみると、ああ日本だなと感じるね、ウッフフ」「でもねえ、外国じゃ注文してから出来上がってくるまで遅いこと遅いこと」とのこと。 横綱時代の歌のレパートリーはサンタ・ルチア、オー・ソレ・ミオ、エルビス・プレスリー、ボビー・ダーリンなど。 大鵬が現役を務めていた頃の二所ノ関部屋は大鵬自身のネームバリューのおかげで隆盛していたのであって、大鵬がいなくなった部屋には魅力がなかったということであろう、と天龍源一郎は衰退に向かって行った二所ノ関部屋を後に振り返ったという。天龍はこれについて「もし大鵬さんが戻ってくれば、弟子の数も大部屋時代に戻り、本流の出羽海にさらに対抗し、大鵬理事長が誕生して一門みんなが潤ったかもしれない。結局、佐賀ノ花さんがたたき上げ、大横綱大鵬さんを生んであれだけ大きくなった部屋を、その大鵬さんが継ぐことができなかった。そこに"悲劇"があったということですよ」と2017年のムックで感想を述べている。 国民栄誉賞を授与した当時より首相を務めている安倍晋三は、2013年1月31日に大鵬への国民栄誉賞授与が検討されていることについて、スポーツニッポン本紙などに「圧倒的な存在感で立ち居振る舞いが美しい力士だった。当然、国民栄誉賞に値すると思っている」と述べた。安倍本人は「巨人、大鵬、卵焼き」の流行語が生まれた1960年代に少年時代を過ごしており、個人的な感情として「卵焼きは好きだったが、巨人も大鵬もアンチだった。“大鵬キラー”と言われた関脇・明武谷は背が高く細くて、私もやせっぽちの子供だったので応援していた」と述懐した一方で「アンチでも大鵬は気になる。大鵬との取組を手に汗を握って応援していた」と明かした。
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