事件の余波や長期影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/25 09:23 UTC 版)
「ケント州立大学銃撃事件」の記事における「事件の余波や長期影響」の解説
この事件の犠牲者の写真は世界じゅうの新聞・雑誌に掲載され、米国のカンボジア侵攻およびベトナム戦争全般への反感を増幅した。中でも、射殺されたジェフリー・ミラー(英語版)の遺体の奥で泣き叫ぶ14歳のメアリー・アン・ベッキーノ(英語版)を収めたジョン・ファイロ(英語版)の写真はピューリッツァー賞を受賞し、この事件を最も象徴する写真になると共に、ベトナム戦争反対運動を象徴する写真の一つとなった。 この銃撃事件は米国じゅうの大学構内における抗議や学生ストライキにつながり、全米で450超の学園構内が暴力・非暴力のデモ行為で閉鎖された。5月8日、ニューメキシコ大学における似たような対立事案ではニューメキシコ州兵により11人が銃剣で負傷した。他にも5月8日に、少なからずケント州での事件に反応して開催されたニューヨーク連邦公会堂での反戦抗議は、建設労働者による親ニクソン派集会と衝突してヘルメット暴動 (Hard Hat Riot) に発展する結果となった。銃撃事件直後に実施されたアーバン研究所の調査では、ケント州の銃撃事件が米国史上初となる全国的な学生ストライキ(学生400万人以上が抗議してストライキ期間中に米国の大学数百校が閉鎖される)になったと結論付けた。 ケント州立大学の構内は6週間にわたって閉鎖された。 銃撃事件から5日後、ワシントンD.C.で反戦および非武装の学生デモ参加者殺害に反対して10万人がデモを実施した。ニクソンのスピーチ原稿作家レイ・プライスは、当時のワシントンでのデモを回想して「街が武装キャンプになっていた。暴徒が窓を壊し、タイヤを切り、路上駐車の車を交差点に引きずり、跨線橋から下の道にベッドを投げ込んだりもした。これが学生の抗議とは思えなかった。学生の抗議ではなく、内戦状態だった」と述べている。ニクソン大統領は安全確保のため2日間キャンプ・デービッドに身を寄せ、大統領を守るために第82空挺師団が大統領府の建物地下に召集されたと、当時の大統領補佐官チャールズ・コルソンは語っている。 同銃撃事件へのニクソン政権の公的な対応は、反戦運動をする多くの人々に冷淡だと捉えられていた。後に国家安全保障担当補佐官のヘンリー・キッシンジャーは、大統領が「無関心を装っていた」と述べた。スタンリー・カーノウは著書『ヴェトナム/ある歴史』にて「(ニクソン)政権は当初この事件に無神経な対応をしていた。ニクソン政権の報道官ロン・ジーグラーは「異議が暴力に変わると悲劇を招いてしまう」ことを想起させるとしてこの死に言及した」と述べている。銃撃事件の3日前、ニクソンは米国の大学構内にいる抗議者達を「碌でなし」だと語り、これに対してアリソン・クラウスの父は「私の子供は碌でなしではない」と国営テレビで主張した。 カーノウはさらに、1970年5月9日未明に大統領が約30人の学生反対派に会い、そこでニクソンが「的外れで恩着せがましい独白で彼らに対応し、彼はそれで自らの慈悲を世間に知らしめようとする稚拙な試みをしていた」と書き記している。ニクソン側に付き従っていた大統領次席補佐官エジル・クローは、違った視点から「救済を差し伸べることは非常に重要で多大な取り組みだったと私は考えている」と述べている。いずれにしても、どちら側も相手を納得させることはできず、学生との会談後にニクソンは反戦運動する人たちは海外の共産主義者の手先だと表明した。学生の抗議活動の後、ニクソンはH・R・ハルデマンにヒューストン計画 (Huston Plan) の検討を依頼、これは反戦運動の指導者に関する情報収集に違法手順を使用するものだった。ジョン・エドガー・フーヴァーだけが抵抗して計画を止めたという。 銃撃事件直後に実施されたギャラップ調査では、回答者の58%が学生を非難し、11%が州兵を非難し、31%は意見を表明しなかったと報道された。しかし、これらが合法的に正当化できるアメリカ市民への銃撃なのか否か、抗議行動やそれらを禁止する決定が合憲であったか否かには、幅広い議論がなされた。犠牲者の数を考慮して、一部の米国メディアは1770年のボストン虐殺事件になぞらえてこの事件に「虐殺(massacre)」という用語を当てた。 ケント州立大や他大学の学生は、しばしば帰省時に疎んじられた。家族から勘当される学生も何人かいた。 事件から10日後の5月14日、ジャクソン (ミシシッピ州)にあるジャクソン州立大学では似たような状況下で警察によって学生2人が死亡(12人が負傷)したが、この事件ではケント州立大銃撃事件ほど国民的注目を浴びなかった。 1970年6月13日、ケント州立大とジャクソン州立大でデモ抗議中の学生が殺されたという結末を受けて、ニクソン大統領は学園騒動に関する大統領諮問委員会(スクラントン委員会とも)を設立し、全米の大学で勃発している反体制、混乱、暴動を調査するよう命じた。同委員会は1970年9月の報告書で、ケント州立大におけるオハイオ州兵の銃撃は正当性が無いと結論付けた調査結果を発表した。その報告書には次のように書かれている。 たとえ州兵が危険に直面していたとしても、殺傷武器を要するほどの危険ではなかった。州兵28人による61発の銃撃は絶対に正当化できない。どうやら、射撃命令は下されておらず、射撃統制の規律が不十分だったようである。当然のことだが、学生デモ隊に立ち向かうのに装填済みライフルを州兵に携行させるのはこれで最後として、ケント州での悲劇は記録に留めておかねばならない。
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