主権回復後の赦免
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 22:17 UTC 版)
「日本国との平和条約第11条の解釈」を参照 日本の主権回復後の戦争犯罪人の取扱いについては、1952年4月28日発効の日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)の第11条に規定されている。その内容を下記にて示す。 日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の判決を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した1又は2以上の政府の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。 1950年代には、これに基づき国内外で収監されている戦犯の赦免や減刑に関する、以下の国会決議が採決されている。 1952年6月9日参議院本会議にて「戦犯在所者の釈放等に関する決議」 1952年12月9日衆議院本会議にて「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」 1953年8月3日衆議院本会議にて「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」 1955年7月19日衆議院本会議にて「戦争受刑者の即時釈放要請に関する決議」 ただし、A級戦犯については、赦免された者はおらず、減刑された者がいるのみである(終身禁錮の判決を受けた10名)。またこれらの決議はまだ生存中の受刑者についての決議であり、既に刑死していた東条らは当然対象外である。 いっぽう、戦犯の国内での扱いに関しては、それまで極東国際軍事裁判などで戦犯とされた者は国内法上の受刑者と同等に扱われており、遺族年金や恩給の対象とされていなかったが、1952年(昭和27年)5月1日、木村篤太郎法務総裁から戦犯の国内法上の解釈についての変更が通達され、戦犯拘禁中の死者はすべて「公務死」として、戦犯逮捕者は「抑留又は逮捕された者」として取り扱われる変化が生じている。 また、1952年(昭和27年)4月施行された「戦傷病者戦没者遺族等援護法」についても一部改正され、戦犯としての拘留逮捕者について「被拘禁者」として扱い、当該拘禁中に死亡した場合はその遺族に扶助料を支給する事になった。 これらは前年の1952年に、例えば日弁連によるBC級戦犯家族を核とする署名活動や、引揚援護愛の運動といった団体の署名活動として、主にBC級戦犯を念頭においたものであるが、国内外で戦犯として収監されている者を即時に釈放すべしという国民運動が発生し、広がったことに起因する。そして「恩給改正法」では受刑者本人の恩給支給期間に拘禁期間を通算すると規定された。その後、東西陣営の冷戦対立の激化の中で連合国中西側主要国の方針変化により、サンフランシスコ講和条約第11条の手続きにもとづき関係11か国の同意を得たうえでA級戦犯の釈放が進められ、A級戦犯については1956年3月の佐藤賢了の仮出所をもって全て出所が完了したとされる。未だBC級戦犯の収監者が残る中、A級戦犯者が全て釈放されたため、世間では不公平感やむしろ逆ではないかとの意識が高まり、巣鴨も含めてBC級戦犯者を全て釈放されるべきだとの声も強まった。BC級戦犯をまず第一の対象とする釈放運動の一環としてのこれらの署名活動は長期にわたって様々な団体によって度々行われ、あるものは海外諸国に対し一括して、あるものはフィリピンあるいは共産中国に対してという風に行われたため、複数回署名した者も多かったが、それらの署名は延べ総数で4000万人に達したとも言われる。 A級戦犯の「名誉の回復」については、1953年(昭和28年)7月9日の厚生委員会において、社会党(社会民主党の前身)の堤ツルヨが「戦犯で処刑されたところの遺族の問題であります。処刑されないで判決を受けて服役中の留守家族は、留守家族の対象になつて保護されておるのに、早く殺されたがために、獄死をされたがために、国家の補償を留守家族が受けられない。しかもその英霊は靖国神社の中にさえも入れてもらえないというようなことを今日遺族は非常に嘆いておられます。」「当然戦犯処刑、獄死された方々の遺族が扱われるのは当然であると思います。」と答弁した。
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