丞相・李斯の刑死
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この頃、胡亥は、趙高から「陛下(胡亥)は若くして(春秋に富み)、皇帝に即位されたばかりであるため、(陛下に)過ちがあれば、群臣たちに短所を示すことになります。天子が『朕』と称するのは、「きざし」という意味ですから、群臣に声も聞かせないことです」という進言を受ける。胡亥は、常に禁中にいて、趙高と諸事を決することにする。これから後、公卿たちは朝廷にて胡亥に会うことができることが稀となった。 趙高は李斯が(胡亥が禁中に入って、朝廷に顔を見せず、趙高とのみ諸事を決したことに対して)不満をもらしていると聞き、李斯に胡亥と会って諫めるように勧める。李斯が同意すると、趙高は胡亥への拝謁の場を設けることを約束した。趙高は、胡亥が酒宴を行い、婦人といる時に、人を遣わして、「上(胡亥)が暇な時です。上奏してください」と李斯に伝えさせた。李斯が宮廷の門に来て、胡亥との拝謁を願った。このような事が三度、繰り返させると、胡亥は怒って言った。「私はいつも暇な日が多いのに、丞相(李斯)はその時に来ない。私がくつろいでいる時に、丞相はやってきて奏上してくる。丞相は私を若いと思っているのか? それとも、軽く見ているのか?」。趙高は答えた。「用心してください。李斯は王になろうと望んでいるのです。李斯と(李斯の息子の)三川郡守の李由は、(李斯の故郷に近くに住む)陳勝たちと通謀しています。李斯は宮廷の外にいて、その権力は陛下(胡亥)より大きいのです」。胡亥は同意して、李斯を取り調べようと望んだが、罪状がはっきりしないことを恐れ、人を派遣して、李由と盗賊が通謀している罪状について調査させた。李斯もまた、このことを聞き知った。 胡亥が甘泉の離宮にいて、技比べや芝居や曲芸を観て楽しんでいた時、謁見できなかった李斯は、趙高の非を上書した。「趙高は陛下(胡亥)と権力を操ることは異なりません。趙高には野望と謀反の志があります。私は、趙高が変事を起こすことを恐れています」。胡亥は答えた。「どうしたのか? 趙高は元々、宦人 であったが、安心できる時も好き勝手に振る舞わないし、危険な時も心を変えたりしない。行いを正しくして、善につとめて、今に至ったのだ。忠義によって昇進し、信義によって今の地位にいるのだ。朕(胡亥)は、趙高をすぐれた人物と思っている。それなのに、君は趙高を疑っている。どうしてなのか? 朕は若くして、先人(父である始皇帝)を失い、識見もなく、民を統治することに慣れていない。それなのに、君もまた老いている。朕が(秦の)天下を絶やすことを恐れている。趙君(趙高)に政治を預けなければ、誰に任せればいいのか? それに、趙高の人柄は清廉で忍耐力があり、下々の人情に通じ、朕の意図にかなっている。君は彼を疑ってはいけない」。李斯は言った。「そうではありません。趙高は元々、賤しい出身であり、道理を知らず、欲望は飽くことは無く、利益を求めて止みません。その勢いは主君(胡亥)に次ぎ、その欲望はどこまでも求めていくでしょう。ですから、私が危険であると見なしているのです」。 胡亥は、元々から趙高を信頼しており、李斯が趙高を殺すことを恐れた。そこで、ひそかに趙高にこのことを告げた。趙高は、「丞相(李斯)が心配としているのは、この趙高だけです。私が死ねば、丞相は秦を乗っ取るでしょう」と言った。胡亥は、「李斯を郎中令(趙高)に引き渡せ」と命じた。趙高は李斯の取り調べにとりかかった。 同年7月、田儋の従弟である田栄が守る東阿を攻めていた章邯の軍が楚の項梁の軍によって打ち破られる。 同年8月、三川郡守である李由が雍丘を攻めて、項梁の配下である項羽と劉邦の軍と戦い、戦死する。 同年9月、胡亥は、秦全軍を出して、章邯の兵を増援した。章邯は定陶において、項梁を打ち破り、戦死させた。 この頃、反乱軍は増大していく一方で、関中にいる兵士を動員して、東方の群盗を攻撃することは止むことはなかった。そこで、右丞相の馮去疾・左丞相の李斯・将軍の馮劫は胡亥を諫めた。「関東の群盗はあちこちで決起し、秦軍を動員して討伐して大勢を討ち取りましたが、群盗は多く、決起は止むことはありません。これは、兵役や労役で苦しみ、賦税が大きいからです。しばらく、阿房宮の工事を中止して、四方の兵役や輸送の労役を減らしてください」。 胡亥は「『(古代の聖人である)尭や舜の生活が質素であり、苦役を行った。天子が貴いのは、意のままにふるまい、欲望を極めつくして、法を厳しくすれば、民は罪を犯さず、天下を制御することができる。天子であるにも関わらず、質素な生活と苦役を行い、民に示した舜や禹は手本にすることはできない』と韓非子は言っている」と反論した上、「朕(胡亥)は帝位につきながら、その実がない。私は(皇帝・天子の)名にふさわしい存在となることを望んでいる。君たちは先帝(始皇帝)の功業が端緒についたことを見ていたであろう。朕が即位して2年の間、群盗は決起し、君たちはこれを治めることができなかった。また、先帝の行おうとしていた事業(阿房宮の工事など)を止めさせようと望んでいる。先帝の報いることもできず、さらに朕にも忠義と力を尽くしていない。どうして、その地位にいることができるのか?」と言って、馮去疾・李斯・馮劫を獄に下して、余罪を調べさせた。馮去疾と馮劫は自殺した。李斯は禁錮させられた。 胡亥は、趙高に、李斯の罪状を糾明して裁判することを命じ、李由の謀反にかかる罪状について、糾問させた。李斯の宗族や賓客は全て捕らえられた。胡亥は使者を派遣して、李斯の罪状を調べさせたところ、李斯は趙高の配下による拷問に耐えられず、罪状を認めてしまった。胡亥は、判決文の上奏を見て、喜んで言った。「趙君(趙高)がいなければ、丞相(李斯)にあざむかれるところであった」。胡亥が取り調べようとしていた三川郡守の李由は、使者が着いた時には、項梁配下であった項羽と劉邦と戦い、戦死した後であった。趙高は李斯の謀反にかかる供述をでっちあげた。 李斯に五刑 を加え、咸陽の市場で腰斬するように判決が行われた。李斯の三族も皆殺しとなった。 同年後9月、章邯は楚軍の名将(周文・陳勝・項梁ら)がすでに死んだため、黄河を渡って北上して、趙王である趙歇らの籠る鉅鹿を包囲した。 この頃、王離(王翦の子の王賁の子)に命じて、趙を討伐させる。王離は趙歇・張耳らの籠る鉅鹿を包囲した。
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