丞相就任後
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開慶元年(1259年)10月に賈似道は陣中で右丞相に任じられ、翌年に臨安に凱旋した賈似道は丞相として中央政界に参画する。戦後、賈似道は功績のあった人物の顕彰と並行して、戦利品の横領や戦費の着服を行う将軍の処罰による、軍紀の引き締めを行った。規律の引き締めの中で向士璧・曹世雄ら大きな武功を立てた人間も免職・流刑の対象とされ、賈似道の論功行賞の公正性を疑う、あるいは苛烈さを咎める声も出た。一方文官に対しては過去の過失を問わない柔和な態度で接し、彼らに将来の協力を約束させた。政府に対して強硬な抗議も辞さない臨安の学生に対しては学費の援助、試験の易化という手段を用いて、彼らを懐柔する事に成功する。賈似道の下では宦官と外戚の勢力は抑制され、前から横行していた猟官運動が厳しく取り締まられた。猟官運動を禁じた一方で隠逸的な学者に出仕を乞い、「猟官運動のためには山に入って座禅をしなければならないのか」とまで言われた。馬廷鸞(中国語版)・江万里らの著名な学者文人が起用されたが彼らは実務能力に欠け、廷臣たちは賈似道の留任を懇願した。 景定5年(1264年)には理宗が崩御して度宗が即位した。咸淳元年(1265年)に太師を加増され、魏国公に封じられる。賈似道は西湖を俯瞰する葛嶺に集芳園と呼ぶ園を置き、園内に建てた半閑堂と称する屋敷で政務を執った。南宋末期の朝廷では賈似道が私邸で書類に決裁を下し、賈似道の館客である廖瑩中が大小の政務を取り仕切り、宮廷の大臣や執政は届けられた書類の内容を検討することなく署名し、判を押す体制ができていた。 咸淳4年(1268年)10月から南宋と元の最前線であった襄陽が元軍の包囲を受けるが(襄陽・樊城の戦い)、賈似道は度宗に襄陽が包囲を受けていることをひた隠しにしていた。賈似道は度宗から襄陽の状況の下問を受けて、女婿の范文虎を救援に派遣して、度宗に襄陽の戦況を密告した人物を殺害したと言われている。襄陽と接続されていた樊城が陥落した時、賈似道は自らが救援に向かう事を申し出たが受理されず、代わりに高達が率いる部隊を向かわせた。咸淳9年(1273年)3月に襄陽の守将の呂文煥は元に降伏し、呂文煥と縁戚関係にあった廷臣の多くが辞職を願い出たが、賈似道は彼らの申し出をすべて却下した。徳祐元年(1275年)3月、賈似道は蕪湖に艦隊を停泊させ、元軍の司令官バヤンに和睦を提案するが、バヤンは元軍が長江を渡る前に和平を提案するべきであったこと、使者ではなく賈似道自身が交渉の場に赴くべきだと提案を一蹴する。賈似道は夏貴・孫虎臣に艦隊を与えて元軍を攻撃するが、蕪湖近辺の丁家洲の戦いで南宋軍は大敗する。敗れた賈似道は淮東の李庭芝の元に逃亡し、恭帝の避難を進言する手紙を朝廷に送った。臨安の留守を預かっていた賈似道の腹心の陳宜中(中国語版)は賈似道の党派と見なされることを恐れて恭帝の退避に反対し、恭帝の退避を主張する殿帥の韓震を暗殺する。 敗戦の報告を受けた朝廷では、賈似道を弾劾する廷臣たちが彼を極刑に処すように主張したが、太皇太后謝氏(中国語版)の取り成しによって循州に流罪となった。漳州の木綿庵において、賈似道は会稽県尉の鄭虎臣(中国語版)に殺害される。鄭虎臣の私怨、あるいはかつての腹心だった陳宜中の指示などが、殺害の動機として挙げられている。 賈似道は武官たちから怨まれていたが、クビライが元に降伏した将軍たちに、なぜ容易く降伏したのかを尋ねたことがあった。将軍たちは口々に「賈似道が我々武官を軽んじたからだ」と恨み言を述べた。それを聞いたクビライは「お前たちを軽んじたのは賈似道であって、宋の皇帝ではない。それなのにお前たちは宋の皇帝に忠節を尽くそうとしなかった。賈似道がお前たちを軽んじたのも当然であろう」と応じたと言う。
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