隠逸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/06 07:42 UTC 版)
文人は隠逸への強い志向を持つとされる。またこの隠逸そのものの考え方も時代的変遷が著しいが、大まかに六朝以前を儒家的隠逸、以降を儒家的隠逸と道家的隠逸のせめぎ合いというように分けることができる。両者の間には隠逸に対する本質的な考え方の変移がある。 儒家的隠逸とは儒教的な倫理を基盤とし、隠逸そのものは目的を達成するための手段としているところに特徴がある。儒家のバイブルといえる『論語』に「天下道有れば即ち見(あら)われ、道無ければ即ち隠る」とある。この「道」とは士人の究極の目的である経世済民を為すことであり、それに相応しい官位に就くことである。もしこの目的が達成できない状況にあるとき、たとえば官位に就いてもその道がないとき、または道はあっても官位に就けないときは自らの意思で隠逸すべきであると説かれている。『論語』にはこのような隠逸についての記述が多数確認でき、また『孟子』にも同様の記述が見られる。ほとんどの士人は高い志をもち学問に励んでいるが、その中で経世済民に相応しい官位に就ける士人は至極わずかである。つまり大多数の士人は志を得ることが出来ず、なんらかの形で挫折し不満をもつ。このような不満が官僚社会に蔓延すれば闘争につながり、結果として民を苦しめることになる。であるからこそ、志を得ざる士人(文人)が隠逸することは経世済民するに等しく、倫理にかなう行為(善)である。孔子が「古の賢人」と讚えた伯夷は志を貫き、自ら官を退き隠逸し、薇(わらび・ぜんまい)を食べながらついには餓死した士人であった。また文人の祖といわれる屈原はその代表作である『離騒』を遺しているが、これは国を守るために志を貫き隠逸したことを詠じた長編詩である。伯夷や屈原の身の処し方は後世の士人(文人)たちに大きな影響を及ぼした。ここでの隠逸とは山林などに身を隠すような隠遁と異なり、単に官を退くことと捉えてよい。 一方、道家的隠逸であるが、倫理(善)のためでなく真理の探求や体得の手段としての隠逸、あるいは隠逸そのものが目的化したといえる。また文人が文学や芸術に耽溺するための物理的な時間を得るために隠逸を志向したという側面もある。 前述のように六朝のはじめ、儒教的倫理規範の束縛からわずかに自由になった文人は道家的思想に新たな価値観を見いだそうとした。そうした中、阮籍や嵆康に代表される竹林の七賢をひとつの理想形とし、隠逸そのものを理念とする思潮が生まれる。しかし、「小隠」ともいわれる隠逸スタイルは官位を捨て山林などに隠棲することであり、そもそも自らの生活のベースである特権階級をも維持できなくなることから実践することは非常に難しかった。 すぐさまこれに替わって「朝隠」と呼ばれる隠逸スタイルが生まれる。官位に就いていながら精神は隠逸するという方法なのだが、内部矛盾を孕んでいるかのようでもある。経世済民という絶対倫理のみに価値をおかず、哲学的・宗教的真理にも重きを置く文人が増えたが、結果としてかれらは官僚としての本来的な職務を疎んじなおざりすることになる。 唐宋になり公私の区別が使い分けられるようになると、「中隠」という隠逸スタイルが現れる。公的には経世済民をし、私的生活で真理を探究し、文学や芸術に耽溺する。陶淵明の隠逸生活が最初の中隠とされるが、近世的文人の祖とされる白居易がはっきり中隠を自覚して実践した。蘇軾などの北宋の文人はこの中隠を理想とした。 明清となると文人は市民生活を行っており、元より経世済民の志がなく官にも就かない場合が多い。これを「市隠」として隠逸のひとつのスタイルとすることもできる。
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