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三浦梧楼

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/27 23:09 UTC 版)

三浦 梧楼
晩年の三浦
生誕 1847年1月1日
弘化3年11月15日
江戸幕府 長門国
死没 (1926-01-28) 1926年1月28日(79歳没)
日本 東京府
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1871年 - 1888年
最終階級 中将
除隊後 枢密顧問官
墓所 青山霊園
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三浦 梧楼(みうら ごろう、旧字体三浦 梧樓弘化3年11月15日1847年1月1日〉 - 大正15年〈1926年1月28日)は、日本陸軍軍人政治家[1]。 最終階級は陸軍中将。栄典は従一位勲一等子爵観樹

経歴

陸軍中将時代

現在の山口県萩市藩士陪臣五十部吉平の五男として生まれる。明倫館[2]で学んだ後、奇兵隊に入隊して第二次長州征伐戊辰戦争に従軍する。維新後は兵部省に出仕、明治7年(1874年)には陸軍省第3局長として台湾出兵に反対。明治9年(1876年)、萩の乱の鎮定に赴き、翌年の西南戦争では第三旅団長として各地を転戦、城山鹿児島県)を陥落させた。明治11年(1878年中将となり、西部監軍部長。

長州出身ながら藩閥政治に反対する立場をとり、また山縣有朋とは奇兵隊時代から不仲であったこともあり、谷干城鳥尾小弥太曾我祐準らとともに反主流派を形成し、山縣有朋大山巌らと対立した。明治14年(1881年)の開拓使官有物払下げ事件では、上記3人と連名で議会開設及び憲法制定を訴える建白書を提出し、翌年陸軍士官学校長に左遷される。明治18年(1885年)に陸軍卿の大山巌と共に欧州の兵制を視察した。

明治19年(1886年)に帰国、月曜会の中心人物として陸軍改革の意見書を提出したが、翌年に熊本鎮台司令長官に左遷される。明治21年(1888年)、予備役に編入。同年から明治25年(1892年)まで学習院院長。明治23年(1890年)7月10月に子爵による互選で貴族院議員に選出されたが[3]、翌年9月30日に辞職した[4]

明治28年(1895年)9月1日、在朝鮮国特命全権公使に就任し[5]公使館付武官で朝鮮政府軍部顧問の楠瀬幸彦中佐や、邦字新聞「漢城新報英語版」社長の安達謙蔵らの協力を得て、[要出典]同年10月7日、安達謙蔵国友重章閔妃殺害を教唆し、安達・国友の両名は三浦の教唆に応じ殺害を決意して同志者を招集した。翌8日早朝、国友を含む同志者たちは凶器を携えて王城内に突入し、直ちに後宮へ至った[5]。閔妃は後庭で殺害され、遺体はその場で焼却された[6]乙未事変)。事変後、関わったとされる三浦以下48名は召還。広島で投獄され、12月12日に広島地方裁判所にて予審開始[要出典][5]。翌1896年1月20日広島地方裁判所における予審や同地で開かれた軍法会議[要出典]の結果、広島地裁は、被告人らの一部が閔妃殺害を決意して後宮に侵入した事実を認定したものの、被告人の中に殺害を実行した者がいると認めるための証拠が十分でないとして、三浦以下48人の被告人全員を免訴とし、そのうち三浦を含む12人を放免した[5]

明治41年(1908年)4月1日、後備役に就任[7]。明治43年(1910年)には枢密顧問官に就任、また宮中顧問官などの要職を歴任する。大正期には「藩閥打倒」を唱え、政界の黒幕としても活動、政党政治期(及びその直前期)の大正5年(1916年)と同13年(1924年)の2度に亘り、対立する政党間の党首会談の仲介などを行った。特に後者の会談は後に「護憲三派」結成の合意がなされた会談として歴史に名を残している。最晩年に口述筆記で、著作を2冊出版している。大正15年(1926年)1月28日、尿毒症のため死去[8]。79歳没。

年譜

  • 明治4年(1871年)
    • 2月15日 - 兵部少丞
    • 7月28日 - 陸軍大佐任官 兵部権大丞
    • 12月14日 - 陸軍少将昇進 東京鎮台司令長官
  • 明治6年(1873年)7月7日 - 陸軍省第三局長
  • 明治8年(1875年)4月25日 - 兼元老院議官
  • 明治9年(1876年)10月26日 - 広島鎮台司令長官
  • 明治10年(1877年)3月10日 - 西南戦争征討第3旅団長
  • 明治11年(1878年)
    • 11月20日 - 陸軍中将昇進
    • 12月14日 - 西部監軍部長
  • 明治15年(1882年)2月6日 - 陸軍士官学校校長
  • 明治17年(1884年)2月16日 - 大山陸軍卿随行
  • 明治18年(1885年)5月21日 - 東京鎮台司令官
  • 明治19年(1886年)
    • 7月26日 - 熊本鎮台司令官
    • 8月16日 - 休職
  • 明治21年(1888年)
    • 11月5日 - 学習院長兼宮中顧問官
    • 12月25日 - 予備役編入
  • 明治25年(1892年)3月26日 - 免学習院長
  • 明治28年(1895年)7月19日 - 駐韓全権公使
  • 明治28年(1895年)10月24日 - 閔妃暗殺事件免職 入獄
  • 明治29年(1896年)1月20日 - 出獄
  • 明治41年(1908年)4月1日 - 後備役編入
  • 明治43年(1910年)10月14日 - 枢密顧問官
  • 大正2年(1913年)4月1日 - 退役
  • 大正13年(1924年)1月22日 - 辞職
  • 大正15年(1926年)1月28日 死去

栄典

位階
勲章等
外国勲章佩用允許

親族

  • 三男 三浦松二郎(子爵)[22]
  • 三浦矢一(貴族院子爵議員、松二郎長男)[22]

脚注

  1. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)「三浦梧楼」
  2. ^ 陪臣のままでは入学できないことになっていたので、藩士三浦道庵の養子となった。
  3. ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』57頁。
  4. ^ 『官報』第2479号、明治24年10月2日。
  5. ^ a b c d 1986年1月23日時事新報記事、『新聞集成明治編年史』第9巻、361-362頁所載、国立国会図書館デジタルコレクション。
  6. ^ 明治天皇紀、明治28年10月8日条第3項。
  7. ^ 『官報』第7458号、明治41年5月9日。
  8. ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)288頁
  9. ^ 『官報』第994号「叙任及辞令」1886年10月21日。
  10. ^ 『官報』第3625号「叙任及辞令」1895年7月30日。
  11. ^ 『官報』第8534号「叙任及辞令」1911年11月30日。
  12. ^ 『官報』第3110号「叙任及辞令」1922年12月12日。
  13. ^ a b 『官報』第4027号「叙任及辞令」1926年1月29日。
  14. ^ 『官報』第307号「叙任及辞令」1884年7月8日。
  15. ^ 『官報』第2100号「叙任及辞令」1890年7月1日。
  16. ^ 『官報』第813号「宮廷録事 - 恩賜並追賜」1915年4月21日。
  17. ^ 『官報』第817号「叙任及辞令」1915年4月26日。
  18. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  19. ^ 『官報』第3717号「宮廷録事 - 恩賜」1925年1月15日。
  20. ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
  21. ^ 『官報』第684号「叙任」1885年10月9日。
  22. ^ a b 『平成新修旧華族家系大成』下巻、666頁。

著作文献

  • 三浦梧樓談 『観樹将軍縦横談』、熊田宗次郎(葦城)編
    元版 実業之日本社、大正13年(1924年)
  • 三浦梧樓談 『観樹将軍回顧録』、小谷保太郎編、※1988年に中公文庫で再刊
    元版 政教社、大正14年(1925年)、復刻版<伝記叢書46 大空社>、1988年
  • この2冊を併せた『明治反骨中将一代記 三浦観樹将軍秘話』 芙蓉書房、1981年

関連作品

映画
  • 『炎のように蝶のように』(2009年)演:パク・ミニ
テレビドラマ

参考文献

  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。

関連項目

外部リンク


軍職
先代
-
東京鎮台司令長官
初代:1871年12月14日 - 1873年7月7日
次代
山田顕義
先代
高橋勝政
(司令長官心得)
広島鎮台司令長官
第2代:1876年10月26日 - 1878年12月14日
次代
井田譲
先代
-
西部監軍部長
初代:1878年12月10日 - 1882年2月6日
次代
高島鞆之助
(部長心得)
先代
小沢武雄
陸軍士官学校長校長
第5代:1882年2月6日 - 1885年5月21日
次代
小沢武雄
先代
北白川宮能久親王
(司令官代理)
東京鎮台司令官
第2代:1885年5月21日 - 1886年7月26日
次代
三好重臣
先代
三好重臣
熊本鎮台司令官
第6代:1886年7月26日 - 同8月16日
次代
山地元治
学職
先代
大鳥圭介
学習院院長
第4代:1887年 - 1892年3月26日
次代
岩倉具定
外交職
先代
井上馨
朝鮮日本公使
第6代:1895年7月19日 - 同10月24日
次代
小村壽太郎
日本の爵位
先代
叙爵
子爵
三浦(梧楼)家初代
1884年 - 1926年
次代
三浦松二郎


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