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三浦誠次

読み方みうら のぶつぐ

江戸後期大名美作勝山藩三浦家第五当主第三当主次の子。第四当主で兄毘次の養(嗣)子。幼名は文之助、のち玄蕃、邳次、盈次、号は虎丘従五位下兵庫頭となる。渡辺玄対に画を学ぶ。天保2年(1831)歿、50才。

三浦誠次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/17 07:29 UTC 版)

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三浦誠次
時代 江戸時代後期
生誕 天明2年5月15日1782年6月25日[1]
死没 天保2年2月14日1831年3月27日[1]
改名 文之助[2](幼名)、邳次[1][2]、盈次[2]、誠次
別名 玄蕃[2]、虎丘[2][3](号)
戒名 常楽院殿前志州刺吏実誉至真誠山大居士
墓所 岡山県真庭市勝山の安養寺
官位 従五位下備後守兵庫頭[1][2]志摩守[1]
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉
美作勝山藩
氏族 三浦氏
父母 三浦前次稲垣昭央
三浦毘次
兄弟 誠次、唯次、勝、安部信操室ら
鍋島斉直養女登[1]、岩淵氏
峻次義次弘次
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三浦 誠次(みうら のぶつぐ[1])は、美作国勝山藩5代藩主。美作勝山藩三浦家10代。

第三代当主前次の子、第四代当主で兄毘次の養嗣子。渡辺玄対に画を学び、「虎丘」と号していた[2][3]

生涯

天明2年(1782年)、第3代藩主・三浦前次(ちかつぐ)の長男[1]として出生した。

文化14年(1817年)11月15日、第4代藩主・毗次(てるつぐ)の養嗣子となる。文政13年(1830年)7月6日、毗次の隠居により、49歳で家督を継いだ[1]。しかし家督相続から1年足らずの天保2年(1831年)2月14日に死去した[1]。享年50。跡を長男の峻次(としつぐ)が継いだ。

系譜

平成新修旧華族家系大成』には以下の3男が記されている[1]。いずれも美作勝山藩藩主となった。

略系図

美作勝山藩主三浦家を実系で示せば以下のとおり。

三浦明敬
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
明喬
 
 
 
義理
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
明次1
 
 
 
矩次2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
前次3
 
 
 
毗次4
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
誠次5
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
峻次6義次7弘次9
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
朗次8顕次10
  • 実線は実子、点線は養子を示す。
  • すべての人物を掲載してはおらず、また兄弟・姉妹の順に配列してはいない。
  • 数字は美作勝山藩主の代数を示す。

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l 『平成新修旧華族家系大成』下、p.668
  2. ^ a b c d e f g 三浦誠次”. 美術人名辞典(コトバンク所収). 2014年5月10日閲覧。
  3. ^ a b 三浦誠次”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus(コトバンク所収). 2014年5月10日閲覧。

参考文献

外部リンク



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