三浦朗次とは? わかりやすく解説

三浦朗次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/17 07:32 UTC 版)

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三浦朗次
時代 江戸時代後期
生誕 天保元年8月3日1830年9月19日[1]
死没 安政7年2月21日1860年3月13日[1]
改名 剛之助(幼名)、有馬純恪、三浦朗次
戒名 清広院
墓所 東京都府中市紅葉丘の誓願寺
官位 従五位下志摩守
幕府 江戸幕府 日光祭礼奉行、奏者番
主君 徳川家慶家定家茂
美作勝山藩
氏族 肥前有馬氏三浦氏
父母 有馬徳純
有馬誉純三浦義次
兄弟 朗次、鉄之助ら
松田勝敬娘[1]
弘次
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三浦 朗次(みうら あきつぐ[1])は、江戸時代後期の大名美作国勝山藩8代藩主。美作勝山藩三浦家13代。

生涯

天保元年(1830年)、越前丸岡藩主・有馬徳純の子として生まれる[1]。その後、徳純の養父である元藩主有馬誉純の養子となり、三男[1]として扱われる。幼名は剛之助、初名は有馬純恪(すみただ)。その後さらに、美作勝山藩主三浦義次の養子となる。

嘉永元年(1848年)11月15日、将軍徳川家慶に拝謁する。同年11月22日、義次の隠居により、家督を継いだ。同年12月16日、従五位下・志摩守に叙任する。嘉永3年(1850年)4月2日、日光祭礼奉行を命じられる。嘉永5年(1852年)閏2月28日、奏者番に就任する。安政7年(1860年)2月21日、27歳で死去。跡を養嗣子の弘次(義次の弟)が継いだ。

系譜

美作勝山藩主三浦家を実系で示せば以下のとおり。

三浦明敬
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
明喬
 
 
 
義理
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
明次1
 
 
 
矩次2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
前次3
 
 
 
毗次4
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
誠次5
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
峻次6義次7弘次9
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
朗次8顕次10
  • 実線は実子、点線は養子を示す。
  • すべての人物を掲載してはおらず、また兄弟・姉妹の順に配列してはいない。
  • 数字は美作勝山藩主の代数を示す。

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c d e f 『平成新修旧華族家系大成』下、p.668

参考文献

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