三国干渉と露清密約とは? わかりやすく解説

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三国干渉と露清密約

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 14:07 UTC 版)

セルゲイ・ウィッテ」の記事における「三国干渉と露清密約」の解説

三国干渉」、「露清密約」、および「旅順・大連租借に関する露清条約」も参照 ウィッテ極東政策における当初目標は、日本および中国との貿易平和的な拡大であり、日本との協力関係数年の間はかなり良好なものであった1894年日本清国のあいだで日清戦争勃発したが、当時ロシア日本勝利を予想した者はほとんどいなかった。しかし、日本戦闘において連戦連勝で、1895年日清講和交渉の場でも日本側が遼東半島割譲要求し4月17日調印され下関条約でも日本への割譲定められた。これは、ロシアにとって意外な展開であった。ここで、ロシアとしては清国弱さ着目してロシアにとって不可欠な不凍港をまずは獲得するという道もありえたし、日本強さ着目して日本遼東半島獲得をまずは何とかして阻止するという選択もあった。換言すれば、近い将来における極東でのパートナー日本とするか、中国とするかという選択問題でもあった。ウィッテ1895年3月特別会議で、従来日本接近論を放棄しひとたび日本遼東半島獲得認めれば、ここが満洲モンゴルへの日本膨張足がかりとなって、やがてロシア極東支配を脅かす力になるであろう唱えた。ここでもし日本遼東半島放棄実現されれば、その憂いはなくなるし、清国からも感謝されるであろうとりわけ、露清国近くを通る鉄道建設にとってはきわめて好都合であると主張した新帝ニコライ2世は、どちらかといえば不凍港獲得優先し日本との友好関係維持すべきとの見解に傾いていたが、ウィッテ意見抑える力はまだなかった。 結局ウィッテ意見通り外相アレクセイ・ロバノフ=ロストフスキーがフランス・ドイツに呼びかけ三国干渉主導した。これは、東アジアにおける提携先として日本ではなく清国選んだことでもあるが、日本国民からは強い憤り買った反面清国からは感謝され実際にその見返りもたらされた。同年6月ウィッテ清国領を横断してウラジオストクまで通じ鉄道の建設獲得しようもくろみ清国日本への賠償金支払いのための借款パリ銀行から得るのに際しロシア利子元本償却保証与え協定結んだ。そして、1895年末にはそこから発展して資本金600ルーブル露清銀行設立し、さらに翌1896年には、ニコライ2世戴冠式のためにロシア訪れた李鴻章との間に露清密約李・ロバノフ密約)を結ばせ、清国東清鉄道敷設認めさせることに成功した。このとき、李鴻章には莫大な賄賂贈られたといわれている。東清鉄道は、満洲横切ってウラジオストクに至る路線で、ヨーロッパ・ロシア沿海州を結ぶ鉄道の距離が大幅に短縮されるだけでなく、アムール川沿いの工事技術的に困難とされた当時にあっては、この利権獲得鉄道建設大い促進する意味合い有していた。さらにこのとき、ウィッテ李鴻章抱き込んで日本対象とする攻守同盟結んだ1896年末、露清銀行によって設立され東清鉄道会社には、鉄道沿線土地管理権検察与えられた。ここで注意しておかなければならないのは、東清鉄道ゲージ幅がシベリア鉄道と同じ5フィート広軌だったことで、これにより、シベリア鉄道走ってきた列車乗り換え台車の交換をする必要もなく満洲横断することが可能になったことである。 ウィッテできるだけ軍事的手段用いことなく満洲経済進出しようとする考えであったが、これは決し他国刺激しないわけではなかった。ウィッテ自身は、これ以上権益拡張望んでいなかった。しかし、ウィッテにとって計算外だったのは、ロシア帝国満洲においてさらに権益拡大させたいという欲求抑えきれなくなっていたことである。冬の4か月間、結氷してしまうウラジオストク港は、軍事関係者の間ではすこぶる評判悪かった満洲入ったロシア勢力視線が、次に不凍港である旅順へと向かうのは、ある意味当然のことだったのである1897年ドイツ清国膠州湾租借要求する新しく外務大臣となったミハイル・ニコラエヴィッチ・ムラヴィヨフロシア旅順占領提案した。『ウィッテ回想記によればウィッテ10月御前会議で以下のように主張したという。 わが帝国三国干渉中国領土保全主張して日本遼東半島放棄させたが、旅順大連はその中に含まれている。その際ロシア中国領土占領しようとする日本いっさいもくろみに対して中国防衛する義務を負う秘密防衛同盟中国結んでいる。そういう約束をしておきながら、日本似たような占領をすることは言語道断な悪辣な手段である。中国ばかりでなく、日本との関係を悪化させるウィッテこのように述べて清国現状維持図り、露清の友好関係維持することがロシアにとって最善だと説いた同席した海軍提督旅順口海軍基地として立地上の問題があることを指摘したが、皇帝ムラヴィヨフ外相意見採用し結局清国に対して1898年に「旅順・大連租借に関する露清条約」を結ばせて、遼東半島租借したムラヴィヨフは、ニコライ2世東方進出意欲的であるばかりでなく、皇帝が常に自信満々振舞ウィッテ反感感じていることを見てとり、旅順獲得進言したといわれている。このときウィッテ皇帝蔵相辞任申し出たが、ニコライ2世はそれを認めなかった。 いずれにせよ、このことにより、日本国民の対露不信感がいっそう増大したのみならず三国干渉以来築かれてきたロシア清国友好関係もまた急速に冷え込んだであった一方、英露両国は、北京奉天をむすぶイギリス資本の京奉鉄道中国語版)の借款問題めぐって対立し最終的に1899年4月イギリス長江流域ロシア長城以北での鉄道敷設それぞれ原則的に認め合う英露鉄道協定スコット・ムラヴィヨフ協定)を結んで妥協したが、ウィッテはこの協定にはあくまでも反対姿勢貫いた

※この「三国干渉と露清密約」の解説は、「セルゲイ・ウィッテ」の解説の一部です。
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