三国干渉と露清密約
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「セルゲイ・ウィッテ」の記事における「三国干渉と露清密約」の解説
「三国干渉」、「露清密約」、および「旅順・大連租借に関する露清条約」も参照 ウィッテの極東政策における当初の目標は、日本および中国との貿易の平和的な拡大であり、日本との協力関係も数年の間はかなり良好なものであった。1894年、日本と清国のあいだで日清戦争が勃発したが、当時のロシアで日本の勝利を予想した者はほとんどいなかった。しかし、日本は戦闘において連戦連勝で、1895年の日清講和交渉の場でも日本側が遼東半島の割譲を要求し、4月17日に調印された下関条約でも日本への割譲が定められた。これは、ロシアにとって意外な展開であった。ここで、ロシアとしては清国の弱さに着目して、ロシアにとって不可欠な不凍港をまずは獲得するという道もありえたし、日本の強さに着目して日本の遼東半島獲得をまずは何とかして阻止するという選択もあった。換言すれば、近い将来における極東でのパートナーを日本とするか、中国とするかという選択の問題でもあった。ウィッテは1895年3月の特別会議で、従来の日本接近論を放棄し、ひとたび日本の遼東半島獲得を認めれば、ここが満洲やモンゴルへの日本の膨張の足がかりとなって、やがてロシアの極東支配を脅かす力になるであろうと唱えた。ここでもし日本の遼東半島放棄が実現されれば、その憂いはなくなるし、清国からも感謝されるであろう、とりわけ、露清国境近くを通る鉄道建設にとってはきわめて好都合であると主張した。新帝ニコライ2世は、どちらかといえば不凍港獲得を優先し、日本との友好関係を維持すべきとの見解に傾いていたが、ウィッテの意見を抑える力はまだなかった。 結局、ウィッテの意見が通り、外相アレクセイ・ロバノフ=ロストフスキーがフランス・ドイツに呼びかけて三国干渉を主導した。これは、東アジアにおける提携先として日本ではなく清国を選んだことでもあるが、日本国民からは強い憤りを買った反面、清国からは感謝され、実際にその見返りがもたらされた。同年6月、ウィッテは清国領を横断してウラジオストクまで通じる鉄道の建設権を獲得しようともくろみ、清国が日本への賠償金支払いのための借款をパリの銀行から得るのに際し、ロシアが利子元本償却の保証を与える協定を結んだ。そして、1895年末にはそこから発展して資本金600万ルーブルの露清銀行を設立し、さらに翌1896年には、ニコライ2世の戴冠式のためにロシアを訪れた李鴻章との間に露清密約(李・ロバノフ密約)を結ばせ、清国に東清鉄道敷設権を認めさせることに成功した。このとき、李鴻章には莫大な賄賂が贈られたといわれている。東清鉄道は、満洲を横切ってウラジオストクに至る路線で、ヨーロッパ・ロシアと沿海州を結ぶ鉄道の距離が大幅に短縮されるだけでなく、アムール川沿いの工事が技術的に困難とされた当時にあっては、この利権の獲得は鉄道建設を大いに促進する意味合いを有していた。さらにこのとき、ウィッテは李鴻章を抱き込んで、日本を対象とする攻守同盟も結んだ。1896年末、露清銀行によって設立された東清鉄道会社には、鉄道沿線の土地の管理権と検察権が与えられた。ここで注意しておかなければならないのは、東清鉄道のゲージ幅がシベリア鉄道と同じ5フィートの広軌だったことで、これにより、シベリア鉄道を走ってきた列車は乗り換えや台車の交換をする必要もなく満洲を横断することが可能になったことである。 ウィッテはできるだけ軍事的手段を用いることなく、満洲に経済進出しようとする考えであったが、これは決して他国を刺激しないわけではなかった。ウィッテ自身は、これ以上の権益拡張を望んでいなかった。しかし、ウィッテにとって計算外だったのは、ロシア帝国が満洲においてさらに権益を拡大させたいという欲求を抑えきれなくなっていたことである。冬の4か月間、結氷してしまうウラジオストク港は、軍事関係者の間ではすこぶる評判が悪かった。満洲に入ったロシア勢力の視線が、次に不凍港である旅順へと向かうのは、ある意味、当然のことだったのである。 1897年、ドイツが清国に膠州湾の租借を要求すると新しく外務大臣となったミハイル・ニコラエヴィッチ・ムラヴィヨフはロシアの旅順占領を提案した。『ウィッテ伯回想記』によれば、ウィッテは10月の御前会議で以下のように主張したという。 わが帝国は三国干渉で中国の領土保全を主張して、日本に遼東半島を放棄させたが、旅順と大連はその中に含まれている。その際、ロシアは中国の領土を占領しようとする日本のいっさいのもくろみに対して、中国を防衛する義務を負う秘密防衛同盟を中国と結んでいる。そういう約束をしておきながら、日本と似たような占領をすることは言語道断な悪辣な手段である。中国ばかりでなく、日本との関係を悪化させる。 ウィッテはこのように述べて、清国の現状維持を図り、露清の友好関係を維持することがロシアにとって最善だと説いた。同席した海軍提督も旅順口は海軍基地としては立地上の問題があることを指摘したが、皇帝はムラヴィヨフ外相の意見を採用し、結局、清国に対しては1898年に「旅順・大連租借に関する露清条約」を結ばせて、遼東半島を租借した。ムラヴィヨフは、ニコライ2世が東方進出に意欲的であるばかりでなく、皇帝が常に自信満々に振舞うウィッテに反感を感じていることを見てとり、旅順獲得を進言したといわれている。このときウィッテは皇帝に蔵相辞任を申し出たが、ニコライ2世はそれを認めなかった。 いずれにせよ、このことにより、日本国民の対露不信感がいっそう増大したのみならず、三国干渉以来築かれてきたロシアと清国の友好関係もまた急速に冷え込んだのであった。一方、英露両国は、北京と奉天をむすぶイギリス資本の京奉鉄道(中国語版)の借款問題をめぐって対立し、最終的には1899年4月にイギリスの長江流域、ロシアの長城以北での鉄道敷設権をそれぞれ原則的に認め合う英露鉄道協定(スコット・ムラヴィヨフ協定)を結んで妥協したが、ウィッテはこの協定にはあくまでも反対の姿勢を貫いた。
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