ベルツの日本観
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「エルヴィン・フォン・ベルツ」の記事における「ベルツの日本観」の解説
彼の日記や手紙を編集した『ベルツの日記』には、当時の西洋人から見た明治時代初期の日本の様子が詳細にわたって描写されている。そのうち来日当初に書かれた家族宛の手紙の中で、明治時代初期の日本が西洋文明を取り入れる様子を次のように述べている。 日本国民は、10年にもならぬ前まで封建制度や教会、僧院、同業組合などの組織をもつわれわれの中世騎士時代の文化状態にあったのが、一気にわれわれヨーロッパの文化発展に要した500年あまりの期間を飛び越えて、19世紀の全ての成果を即座に、自分のものにしようとしている(「横領しようとしている」の異訳あり)[要出典]。 このように明治政府の西洋文明輸入政策を高く評価しその成果を認めつつ、また、明治日本の文明史的な特異性を指摘したうえで、他のお雇い外国人に対して次のような忠告をしている。 このような大跳躍の場合、多くの物事は逆手にとられ、西洋の思想はなおさらのこと、その生活様式を誤解して受け入れ、とんでもない間違いが起こりやすいものだ。このような当然のことに辟易してはならない。ところが、古いものから新しいものへと移りわたる道を日本人に教えるために招聘された者たちまで、このことに無理解である。一部のものは日本の全てをこき下ろし、また別のものは、日本の取り入れる全てを賞賛する。われわれ外国人教師がやるべきことは、日本人に対し助力するだけでなく、助言することなのだ。 文化人類学的素養を備えていた彼は、当時の日本の状況に関する自身の分析・把握を基にして、当時の日本の状況に無理解な同僚のお雇い教師たちを批判した。さらに、彼の批判は日本の知識人たちにも及ぶ。 不思議なことに、今の日本人は自分自身の過去についてはなにも知りたくないのだ。それどころか、教養人たちはそれを恥じてさえいる。「いや、なにもかもすべて野蛮でした」、「われわれには歴史はありません。われわれの歴史は今、始まるのです」という日本人さえいる。このような現象は急激な変化に対する反動から来ることはわかるが、大変不快なものである。日本人たちがこのように自国固有の文化を軽視すれば、かえって外国人の信頼を得ることにはならない。なにより、今の日本に必要なのはまず日本文化の所産のすべての貴重なものを検討し、これを現在と将来の要求に、ことさらゆっくりと慎重に適応させることなのだ。 無条件に西洋の文化を受け入れようとする日本人に対する手厳しい批判が述べられている。また、日本固有の伝統文化の再評価を行うべきことを主張している。西洋科学の手法を押し付けるのではなく、あまりに性急にそのすべてを取り入れようとする日本人の姿勢を批判し、助言を行っている。 また大日本帝国憲法制定時には、一般民衆の様子を「お祭り騒ぎだが、誰も憲法の内容を知らない」(趣旨)と描くなど、冷静な観察を行っている。 一方、東京大学を退職する際になされた大学在職25周年記念祝賀会でのあいさつでは、また別の側面から日本人に対する批判がなされている。 日本人は西欧の学問の成り立ちと本質について大いに誤解しているように思える。日本人は学問を、年間に一定量の仕事をこなし、簡単によそへ運んで稼動させることのできる機械の様に考えている。しかし、それはまちがいである。ヨーロッパの学問世界は機械ではなく、ひとつの有機体でありあらゆる有機体と同じく、花を咲かせるためには一定の気候、一定の風土を必要とするのだ。 日本人は彼ら(お雇い外国人)を学問の果実の切り売り人として扱ったが、彼らは学問の樹を育てる庭師としての使命感に燃えていたのだ。・・・つまり、根本にある精神を究めるかわりに最新の成果さえ受け取れば十分と考えたわけである。 このような批判は日本を嫌ってなされたものではない。挨拶の中では、当時の日本の医学生たちの勤勉さや優秀さを伝える発言もなされている。また、教員生活は大変満足できるものであった、とも述べている。しかし、彼はあえて日本人の学問に対する姿勢に対する批判を行った。すなわち、本来、自然を究めて世界の謎を解く、という一つの目標に向かって営まれるはずの科学が、日本では科学のもたらす成果や実質的利益にその主眼が置かれているのではないか、と。そしてそのことを理解することが、日本の学問の将来には必要なことである、と彼は述べている。 また、このような言葉も残している。 もし日本人が現在アメリカの新聞を読んでいて、しかもあちらの全てを真似ようというのであれば、その時は、日本よさようならである。 彼は西洋文明輸入に際しての日本人の姿勢を批判し続けていた。これは当時の廃仏毀釈の嵐吹き荒れる日本への危機感でもあり、同様の考えを持ち親友でもあるハインリヒ・フォン・シーボルトと同様に多くの美術品・工芸品を購入し保存に努めている。主治医も務めたほど関係があったシーボルトからは晩年そのコレクションの管理を託されるほどの信頼関係があり(シーボルトの急死によりその願いは果たされずコレクションは散逸)、公私に渡っての親友であった。また、文化の面にしても同様で前述のシーボルトの誘いで歌舞伎の鑑賞に出掛け、またフェンシングの達人でも合った同氏と共に当時随一の剣豪であった直心影流剣術の榊原鍵吉に弟子入りもしている。
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