ブルズvsジャズ 1stラウンド
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「1996-1997シーズンのNBA」の記事における「ブルズvsジャズ 1stラウンド」の解説
シカゴ・ブルズのマイケル・ジョーダン、スコッティ・ピッペン、デニス・ロッドマンは史上最高のビッグスリーの一つであり、彼らは話題性においても群を抜いていた。 ジョーダンは言わずと知れた当時世界で最も有名なバスケット選手であり、コート上、プライベート問わず彼の行動は常に世間の注目の対象であり、一時苛烈を極めたバッシングも彼を襲った身内の不幸と2シーズンの空白期間、そして劇的な復活を経て沈静化を見せ、そして周囲はバスケットという範疇を超えた存在としてジョーダンを語り始めるようになっていた。"悪童"として知られるロッドマンはこのシーズンも試合中にカメラマンを蹴ったとして11試合の出場停止処分を受けた相変わらずの破天荒振りを見せ、オフコートではシーズン前に出版した自伝「Bad As I Wanna Be(ワルがままに)」がベストセラーとなった。プライベートではジョーダンやロッドマンほど派手ではないピッペンも、以前から燻っていた契約問題に対する不満を公に語るようになり、「ブルズに内紛の兆候あり」として結局は周囲の注目をブルズに集める結果となった。 そして彼らは何より強かった。前季はNBA史上最高勝率となる72勝を記録し、このシーズンも前半は42勝6敗とNBA新記録ペースで勝ち続け、終盤には故障者の続出で失速したため2年連続70勝には届かなかったものの、それでも最終的には史上2位タイとなる69勝を記録して他を寄せ付けなかった。シーズン終盤の故障者の続出でブルズのプレーオフが危ぶまれたが、ブルズは周囲の不安を他所に順調に勝ち進み、カンファレンス決勝に進出した。 ブルズにとってイースト最大のライバルチームはニューヨーク・ニックスであり、毎年プレーオフではブルズを苦しめていたが、この年のカンファレンス決勝でブルズを待っていたのは、そのニックスを破って初のカンファレンス決勝に進出したマイアミ・ヒートだった。ヒートのヘッドコーチはかつてニックスを率いたパット・ライリーであり、ライリーはヒートをニックス同様攻撃的で強力なディフェンスが持ち味のチームに育て上げたが、ブルズは4勝1敗でヒートを降し、連覇を目指してファイナルに進出した。1980年代はロサンゼルス・レイカーズで栄華を極めたライリーも、90年代に入ってからはジョーダン率いるブルズの前に何度も苦杯を舐めさせられたため、彼は後にヒートの背番号『23』をジョーダンの功績を讃えて永久欠番とするが、実はジョーダンの背番号を自分のチームでは見たくないからだと言われている。 ブルズの一党独裁体制が続くイーストに対し、ウエストは強豪チームが鎬を削る群雄割拠の時代が続いており、ウエストはジョーダン不在の2シーズンに連覇を果たしたヒューストン・ロケッツを除き、レイカーズ、ポートランド・トレイルブレイザーズ、フェニックス・サンズ、シアトル・スーパーソニックスと、強豪チームを次々とファイナルに送り出しているが、尽くブルズの前に散っている。そしてこの年、打倒ブルズを目指し、満を持してユタ・ジャズがファイナルの大舞台に乗り込んだ。 ユタ・ジャズのファイナルまでの道のりは殊の外険しく、1979年に誕生して1984年にプレーオフに初進出して以来、プレーオフ連続出場を続けており、1984年のNBAドラフトにはジョン・ストックトンを、翌年にはカール・マローンを獲得し、1989年のジェリー・スローンHCの招聘を経て、毎年のように50勝以上を記録するウエスト屈指の強豪チームに成長したが、ファイナルには届かない日々が続いた。マローンとストックトンと言えば、2人ともリーグ最高峰のパワーフォワードとポイントガードであり、そのコンビネーション、特にピック&ロールは芸術品に例えられ、2人はNBA史上最高のデュオとまで言われたが、彼らをもってしてもファイナル出場は困難な道のりだった。1994年にはジェフ・ホーナセックを獲得し、マローンとストックトンのコンビが結成されて10年目を迎えた1994-95シーズンには当時のフランチャイズ記録となる60勝を記録するが、プレーオフでは1回戦でまさかの敗退を喫している。翌1995-96シーズンも55勝の好成績を記録し、プレーオフではカンファレンス決勝に進出するも、彼らよりも約5歳年下のゲイリー・ペイトンとショーン・ケンプ率いるシアトル・スーパーソニックスの前に敗れており、それぞれ34歳と33歳を迎えたストックトンとマローンは、優勝の機会を逸したかに見えた。 しかし彼らは頑丈だった。このシーズンも2人は全82試合に出場し、ストックトンは10シーズン連続のアシスト王の座はインディアナ・ペイサーズのマーク・ジャクソンに明け渡してしまうものの、アシスト数とスティール数は相変わらず高水準を維持し、マローンもジョーダンに次ぐリーグ2位となる平均27.4得点を記録するなど、その実力は健在だった。そしてこのシーズンには4年目を迎えたブライオン・ラッセルが急成長を見せるという嬉しい誤算もあり、ペリメーターには、ストックトン、マローンに次ぐチームの2ndオプションであるホーナセック、ラッセル、インサイドにはマローン、マーク・イートン以後の先発センターを務める23歳のグレッグ・オスタータグ、シックスマンセンターのアントワン・カーが陣取る、充実したメンバーでフランチャイズ記録となる64勝を記録し、マローンは初のMVPに選ばれた。 プレーオフに入り、ジャズは1回戦とカンファレンス準決勝(マローンは第4戦でフリースロー18本全てを決め、当時のプレーオフ新記録を樹立)を問題なく勝ち抜き、カンファレンス決勝でヒューストン・ロケッツと対決。ロケッツにはアキーム・オラジュワンにクライド・ドレクスラー、そしてこのシーズンから加入したチャールズ・バークレーという、ストックトンらと同世代のスター選手が3人も揃っていた。バークレーの移籍は明らかにチャンピオンリングを求めたものであったが、チャンピオンリングが欲しいのはストックトンとマローンも同じだった。80年代にNBA入りした選手のオールスター戦の様相を呈したカンファレンス決勝は、チャンピオンリングへの執念が上回るジャズのペースで進み、3勝2敗で迎えた第6戦の試合終盤、ストックトンが決勝ブザービーターとなる3Pシュートを決めて、103-100でジャズが勝利した。この瞬間普段沈着冷静で知られるストックトンが我を忘れて跳ね回り、ジャズ初のファイナル進出が決定すると厳格なコーチとして知られるジェリー・スローンは両腕を揚げてコート上を走り回った。 ジョーダンとストックトンは同じ1984年に指名された選手であり、マローンはその翌年に指名され、約10年の歳月を経てファイナルの大舞台でいよいよ激突することになった。ジョーダンとピッペン、ストックトンとマローンは4人ともこのシーズンのオールスターで発表された50人の偉大な選手に選ばれており、当時リーグ最高峰のデュオ同士の対決としても注目を集め、またジャズのスローンHCにとっては現役時代の大半とコーチキャリアの初期を過ごした古巣との対決となった。90年代もすでに後半に突入しているが、ファイナルを闊歩するのは未だ80年代中盤にNBA入りした、いわゆるジョーダン世代と呼ばれる選手であり、そして2年連続でファイナルで対決することになるブルズとジャズの戦いは、そのジョーダン世代最後の一大決戦となる。
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