ビール麦栽培の普及
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/13 08:24 UTC 版)
数ある律之助の功績の中で最大のものが、ビール醸造用の大麦の日本国内需給をはかり、栃木県での生産を定着させ、契約栽培の基礎作りを成し遂げたことである。また栃木県のビール麦生産量のシェアを全国トップクラスにする基礎を築いた。 日本のビールは、嘉永6年(1853年)の川本幸民による実験的な醸造から始まり、明治2年(1869年)のウィリアム・コープランドによる「スプリング・ブルワリー」や明治5年(1872年)の渋谷庄三郎による醸造から本格的となった。開拓使が1876年(明治9年)に設置した札幌麦酒醸造所(後のサッポロビール)では、稼働開始時より北海道の農家や屯田兵と特約栽培を結んで日本国産の麦芽を入手しており、これが日本のビール麦栽培の始まりである。しかしながら、本州では1887年(明治20年)になっても日本国外から輸入した麦に頼っており、律之助はこれを遺憾に思っていた。またビール生産量の急伸によって麦芽輸入量が膨大になったことから、ビール会社では日本国内で栽培したビール麦の入手を検討し始めた。 そこで律之助は大日本麦酒の技師・井出代太郎を説得して、栃木県産のゴールデンメロン種の麦でビールを造ってもらった。するとその成績は良かったので、大日本麦酒と栽培契約を締結し、ビール麦栽培を奨励した。本州のビール会社がビール麦の栽培契約を結んだのは1895年(明治28年)の京都府の農家が最初で、1906年(明治39年)に契約を結んだ栃木県は本州で5府県目であった。契約初年度(1906年〔明治39年〕秋まき、1907年〔明治40年〕収穫)は河内・上都賀・下都賀・塩谷・那須の5地区で983石余(≒177.3 kL)、2年度目(1908年〔明治41年〕収穫)は2,618石(≒477.2 kL)を取り引きした。2年度目までは栃木県農会の仲介により、県内各郡の農会を経由して各町村の農会がビール会社と栽培契約を結んでいたが、3年度目(1909年〔明治42年〕収穫)からは各市町村に設立したビール麦耕作組合が契約を結び、県と郡の農会が契約の指導・斡旋を行うようになった。また県農会は種子生産体制の整備と栽培法の改善なども行った。10年度目(1916年〔大正5年〕収穫)には11,615石(≒2,095.2 kL)まで伸び、12年目(1918年〔大正7年〕収穫)に県内7郡31耕作組合が結んだ栽培契約量は15,000石(≒2,705.9 kL)を突破し、以後長らく日本一の座を守った。また、律之助はビール麦の共同販売を推奨し、販売数量でも日本一となった。 ビール麦のわらは長くなめらかであるため、かんぴょうの敷きわらに適しており、かんぴょう1反(≒9.9 a)につきビール麦1反で済むという効率の良さから農家に喜ばれた。また栽培時期がかんぴょうは夏、ビール麦は冬で、互いに重ならなかった。そしてビール麦は肥料の吸収力が強く、かんぴょう畑の畝の間に植えて栽培することができた。このようにビール麦栽培は栃木県の名産であるかんぴょう(ユウガオ)の栽培をも支えたが、麦作の機械化により、この互恵関係は崩れた。 律之助の死後、1954年(昭和29年)4月1日に栃木県農業試験場薬師寺分場が河内郡薬師寺村(現・下野市薬師寺)に開場した。薬師寺分場は宇都宮市の本場から篇甫部が独立する形で発足し、かんぴょうとビール麦の研究を行った。かんぴょうとビール麦の専門研究機関は日本唯一であった。薬師寺分場は1956年(昭和31年)の南河内分場への改称、1974年(昭和49年)の自治医科大学設立に伴う栃木市への移転と栃木分場への改称を経て、農林水産省の二条大麦育種指定地としてビール麦の原種栽培、栽培方法や育種の研究を続けてきた。栃木分場は2011年(平成23年)に廃止されたが、2012年(平成24年)に麦類研究室を本場に移し、研究を続けている。 2007年(平成19年)の統計では、栃木県の二条大麦の作付面積は9,110 ha、収穫量は27,900 tであり、これがすべてビールに加工されると仮定すると、ビール瓶(大瓶)3.1億本に相当する。(実際に栃木県産の二条大麦は、ほとんどビール醸造に消費されている。)なお、日本のビール麦栽培は明治期以来、一貫してすべて契約栽培である。ビール原料として安定した質と量を確保する必要があるというビール会社の都合によるものであるが、農家にとっても一定量の買い入れが保障され、加算金を付けて販売できるメリットがある。
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