バンド全盛期からソロ活動まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 05:14 UTC 版)
「忌野清志郎」の記事における「バンド全盛期からソロ活動まで」の解説
1976年、事務所を「ホリプロ」から「りぼん」に移籍。スタジオミュージシャンを大々的に起用したアルバム『シングル・マン』を発表。以降、徐々にロックバンド化(俗に「エレキ化」と言われる)。 1977年からメンバーの脱退・加入を繰り返しながら、精力的なライブ活動を展開。また、この時期のいくつかのライブでは「栗原清志とオールスターズ」の名義を使っている。 1978年半ば頃から徐々にライブハウスでの人気が出始め、この時期からT.Rexのマーク・ボランやデヴィッド・ボウイなどのグラムロック一派やミック・ジャガーの影響でメイクを始め、またパンク・ファッションの影響でパンクヘアにカットしたことから、独特の奇抜な風貌になる。 1979年には音楽ライターの吉見佑子が『シングル・マン』再発実行委員会を組織するなど、音楽的に評価する空気が高まる。 1980年のシングル「雨あがりの夜空に」「トランジスタ・ラジオ」、アルバム『RHAPSODY』のヒットで、YMOの坂本龍一と並び、RCサクセションの忌野清志郎はメディアの寵児として取り上げられることになった。また、同年の一橋大学の学園祭ライブでは平沢進が率いたニューウェイブ・テクノポップバンド「P-MODEL」と対バンを行った。 1982年、坂本龍一と組んでシングル「い・け・な・いルージュマジック」を発表。これ以降、RCサクセションとしての活動のかたわら、数多くのユニットでも活動。 1983年、ハードスケジュールなどがたたって肝臓を病むが、東洋医学などの文献を読み漁り家庭治療を実践し、奇跡的に完治している。 1984年、この時期の事務所の対応に不満を募らせ事務所「りぼん」から独立。 1985年、RCサクセションの事務所「うむ」を設立するが、このころからRCサクセション内でも各メンバーのソロ活動が活発化し、バンドの活動は停滞。この時期、清志郎はライブ・エイドの日本放送版に「DANGER」で出演したり、『Merry Xmas Show』に出演したりなどした。 1987年、初のソロアルバム『RAZOR SHARP』を発表。 1988年、RCサクセションのアルバム『COVERS』の発売中止騒動を受けて、清志郎とよく似たZERRYという人物がザ・タイマーズを結成し、アン・ルイスのライブに飛び入り。以降、様々なミュージシャンのライブ・イベントライブに乱入を繰り返す。養父が亡くなり、長男が生まれ、結婚する。 忌野がTEARDROPSに作詞提供&コーラス参加した「谷間のうた」がFM東京で放送禁止になったことを受け、アルバム『THE TIMERS』のプロモーションで生放送の「ヒットスタジオR&N」(フジテレビ)に1989年10月に出演したザ・タイマーズが、その中の一曲を放送禁止用語を交えてFM東京を罵倒する歌へと番組に無断で差し替え、放送禁止用語を連発したことが話題となった。 1990年9月、アルバム『Baby a Go Go』発売し、それに付随するツアーの最終日の武道館公演(12月25日) 1991年、RCサクセションは無期限活動休止を表明。RCサクセションの事務所「うむ」も解散したため、清志郎は個人事務所「ベイビィズ」を設立。 1994年、プライベートスタジオ「ロックンロール研究所」を設立する。一方で俳優としての活動も始める。同年、映画『119』に音楽監督として参加し、翌1995年の第18回日本アカデミー賞で最優秀音楽賞を受賞。 この時期、清志郎と良く似たZERRYという人物が率いるザ・タイマーズが活動を再開。彼らのレコ倫を通らない楽曲を発表させるために、インディーズレーベル「SWIM RECORDS」を設立。 1996年、テレビドラマ『ギフト』に、情報を提供する"犯罪マニア"役として出演。後に交流をもつようになる木村拓哉と共演し話題となる。 1999年、「忌野清志郎 Little Screaming Revue」のアルバム『冬の十字架』、翌年に「ラフィータフィー」のアルバム『夏の十字架』が三度発売中止騒動に巻き込まれるなどトラブルを数多く抱えるなか、デビュー30周年記念のトリビュートコンサート「RESPECT!」を日本武道館で開催し、多くのミュージシャンが清志郎(およびRCサクセション)の楽曲を演奏した。 2000年、サイクリングにはまり、ラフィータフィーのメンバーを勧誘してチームLSD(Long Slow Distance)を結成。以降、ツアー間の移動に自転車を使ったり、奥の細道自転車ツアーやホノルル・センチュリーライドなど数多くの長距離サイクリングにも挑戦した。 2001年、中学時代の同級生に自転車の専門誌『サイクルスポーツ』の編集長がいたことから、そのつてでプロ仕様の自転車(特注)を入手。 2004年、サイクリング中に落車して左の鎖骨を骨折という事故を起こす。 2005年、愛車「オレンジ号」の盗難(のちに発見)という災難に遭う。しかし、生涯自転車熱が冷めることはなかった。
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