メンバーの脱退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 06:31 UTC 版)
一番年少の三島にとっても先輩格に当たるこれらの面々から、会の一員として迎えられたことは大きな自信になった。だがメンバーの一人、吉田健一から「お前は俗物だ。あまり偉そうな顔をするな」と面罵される事件が起きた[要出典]。その後、吉田健一は、三島に対して詫び状を作成、中村に添削を依頼するなどして、会への復帰を三島に依頼したが、「長期欠席」と穏やかな調子で和解を拒絶した。 父吉田茂元首相・外相の人脈で仲裁しようとしたが、結局三島を裏切り有田側に立つ発言を行い、2人は決別し、三島は脱会した。三島は吉田から酷評された長編『鏡子の家』に続いて、有田八郎元外相をモデルにした『宴のあと』を書き、有田側からプライバシー侵害で訴えられていた。三島と中村はその後も共著を出すなど、各個人同士での交流はあったが、やがて三島と大岡がそれぞれ、演劇活動、言論活動をめぐって、福田とすれ違うようになったこともあり、大岡の足も遠のいた。最終的に、初期から参加していた吉田、中村、福田、吉川が会を存続させた。1977年5月、吉田が生前最後の英国旅行に出かける数日前にも開かれた記録が残る。
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