ノロ高地攻防戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 15:12 UTC 版)
日本軍陣地の南翼に当たるハイラースティーン(ホルステン)川南岸は、ノロ高地を中心拠点として、その中心拠点を守る第8国境守備隊の長谷部支隊、歩兵第28連隊梶川大隊、歩兵第71連隊主力が配置されていた。7月20日にソ連軍の総攻撃が始まると、狙撃兵第82師団と同57師団を主力とする圧倒的なソ連軍と、747や757といった高地を巡って激しい争奪戦を繰り広げた。747高地には歩兵第71連隊第3大隊主力が進出していたが、化学戦車を先頭として、守る日本軍兵士が「黒山のような」と形容したほどのソ連軍歩兵の大群が何度も攻撃してきた。化学戦車はハルハ河西岸で日本軍歩兵に苦戦させられた経験により安易には日本軍陣地に近づかず、50 m離れた場所で一旦停止し火炎放射で攻撃してきたため、日本兵は化学戦車に肉薄すると手榴弾を何個も縛り付けた結束手榴弾を投げつけ、ソ連軍歩兵とは高地の至る所で白兵戦を展開し、2時間戦い続けようやく撃退している。しかし、日本軍は弾薬・食糧も底をついたのに対し、ソ連軍は次から次と新戦力が攻め込んできて、7月22日には各拠点が包囲されたので、夜には一旦拠点を放棄し、翌23日に第71連隊は三角山とヒョウタン砂丘に集結したが、第3大隊は壊滅していた。 そこに第6軍司令部から、攻勢移転のため連隊全兵力を攻撃開始位置に移動せよとの命令が入ったが、第71連隊がハイラースティーン(ホルステン)川南岸から転進すると、ノロ高地を守っている長谷部支隊が孤立することになるため、師団司令部に意見具申したが回答はなく、やむなく森田連隊長は独断で第1大隊だけを転進させ主力(第2大隊と残存兵)はそのまま現地に残らせた。しかし、ただでさえ少なかった兵力が第1大隊の転出により各部隊の境界地域が手薄となってしまい、各拠点が孤立して戦うこととなった。8月22日にはノロ高地北翼に戦車18輌で攻め込んできたが、第1師団から派遣されていた岡崎速射砲中隊が迎撃し、速射砲と火炎瓶などを駆使し13輌を撃破して撃退した。中には戦車に飛び乗ってツルハシで砲塔のハッチをこじ開け車内に結束手榴弾を投げ込み撃破した日本兵もいた。ソ連軍の部隊間の連携も拙く、8月23日に日本軍の退路遮断の命令を受けた第6戦車旅団のフローポフ上級中尉率いるBT-7中隊7輌を、第602狙撃兵連隊のグーセフ大尉が日本軍の戦車と誤認して、対戦車砲中隊に攻撃命令を出したが、命令を受けた中隊長のミガチョーフ少尉が本当に日本軍戦車という確信をもてなかったため、グーセフに命令を再確認したところ、日本軍戦車で間違いないとの回答があり、ミガチョーフは200mの至近距離で砲撃を命令、7輌全部を同士討ちで撃破し、フローポフ以下21名の戦車兵は全員戦死している。 ソ連軍は日本軍の抵抗が激しいと認識すると、確保した「蒙古山」と呼称されたノロ高地至近の砂丘に重砲や野砲を設置し、至近距離から直接照準でノロ高地の日本軍守備隊に集中砲撃を行った。またここでも化学戦車が活躍し、掩体や地下壕から現れた日本兵を焼き尽くした。長谷部支隊の指揮下にあってノロ高地前面陣地を死守していた歩兵第28連隊の梶川大隊は、砲撃が終わった後に肉薄してきたソ連軍歩兵と、大隊長自ら銃を撃ち手榴弾を投擲するとこまで追い詰められながら何度もソ連軍を撃退し続けたが、弾薬と水が尽きかけている状況で、これ以上は持ち堪えられないと判断した大隊長の梶川は、支隊長の長谷部に暗に玉砕を申し出たが、拒否され「なるべく長く陣地を確保せよ」との命令が届いた。命令を知った梶川大隊の将兵は、最後の突撃による玉砕を梶川に進言するが、梶川は「死ぬときはこの陣地で死のう」と部下を諭した。この梶川大隊の勇戦敢闘は後にアメリカ陸軍戦史部(英語版)のエドワード・ドレー博士から、「その勇気と頑強さはノモンハン戦では随一」と特筆されている。 ソ連軍は味方の砲撃や爆撃による同士討ちを避けるため、各部隊の最前線には赤旗を立てていたが、もはやその赤旗が梶川大隊の陣地やノロ高地の至る所に立っている末期的状況で、25日には、猛攻を受け続けていた長谷部支隊主力も兵員の死傷率は70%に達していた。ノロ高地は完全に包囲されていたが、包囲したソ連軍は拡声器を使い盛んに日本語で降伏勧告を行ってきた。その降伏勧告の合間には日本兵の郷愁を誘うべく「佐渡おけさ」等の日本の歌も流された。長谷部は一旦、敵陣地に玉砕覚悟で夜襲をかける気であったが、25日の21時には翻意し、全部隊に撤退命令を出した。この命令は苦闘する梶川にも伝えられたが、その頃には梶川に付き従う兵士はわずか6名になっていた。26日の夜にソ連軍の目を逃れて暗闇の中でソ連軍の包囲網の突破を試みたが、1個大隊規模まで戦力が落ち込んでいた脱出部隊は、翌27日に第127狙撃兵連隊と第9装甲車旅団に発見され、蹴散らされた。それでも長谷部残存部隊は8月28日に、増援として戦場に到着した第7師団の歩兵第25連隊と合流することができた。しかし、長谷部の行動はフイ高地を独断撤退した井置と同じであり、戦後に井置と同様に軍団長の萩洲と師団長の小松原から自決勧告され、9月20日に自決している。長谷部は部下に愛され尊敬された温厚篤実な指揮官であり、荻洲らに抗弁や恨み言をいうこともなく静かに運命を甘受した。 26日にノロ高地の戦況が最後の段階に達すると、その東方で同様に苦闘していた歩兵第71連隊主力の命運も尽き、連隊長の森田がソ連軍の重機関銃の銃撃を受け戦死した。8月8日に連隊長に着任しわずか18日での出来事であった。第71連隊は第2大隊遠井大隊長が代行したが、第23師団からの命令で撤退したため、27日にはハイラースティーン(ホルステン)川南岸からは日本軍が駆逐され、残る日本軍の拠点は第23師団主力が守るバルシャガル高地(ソ連名レミゾフ高地)のみとなってしまった。
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