スタジオ・システムが成立するまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 07:25 UTC 版)
「スタジオ・システム」の記事における「スタジオ・システムが成立するまで」の解説
1905年頃、米国では映画の上映は、ヴォードヴィルの一環として広場の仮設テントや見せ物小屋などの施設での貧弱で不安定な公開手段から、本格的な劇場での興業へと形態を変えつつあった。それに伴い1907年頃上映用プリントの配給も中間業者(エクスチェンジ業、Film Exchange)が現れ、映画の製作者から興業側へ次第に安定して作品を供給できるようになり、それに伴い映画界はいよいよ隆盛を見せてきた。 1908年米国映画の創始者であるトーマス・エジソンは、自分の発明によってエクスチェンジ業の新興業者が儲けているのに業を煮やして、強権的ともいえる映画特許会社MPPC(Motion Picture Patent Company)をシカゴで発足させる。10社以上の同業他社を訴えると共にこのトラストの下では、一部の大手業者(ケイレム、ヴァイタグラフ、エッサネー、セイリグ、ルービン、フランスのジョルジュ・メリエスのスター・フィルム、およびパテ)のみエジソン社製の機材を用いて撮影し(しかも後にはイーストマン・コダック社製の生フィルムまでも制限された)、配給業者もこのトラストに加わなければ上映もできない、という極めて高圧的な内容であった。そのため、このトラストに加われなかった独立系映画製作者は今までの東海岸の撮影拠点から、南のフロリダや西海岸へと逃げるようにして必死のサバイバル活動の拠点を変えていった。西海岸、特に南カリフォルニア州は一年中温暖で晴天が多く、雨はほとんど降らず、また移民人口が多いため労働賃金も非常に安いので、映画製作には絶好の土地であった。こうして、映画のスタジオがこの新天地に次々と開設されていった。また、このトラストは独禁法違反という米国最高裁判所判例が出たため、1915年には崩壊してしまう。 ある映画史研究家の推計によれば1910年頃のアメリカの映画人口は1000万人とも2000万人ともいわれていた。全米における映画観客数が記録され始めたのは、第1次世界大戦の戦費に充てるため特別税をかけられた1918年からである。1910年代に入ると、ハリウッド近辺に本格的な映画スタジオが設立された。当時のハリウッドの地価は1エーカー(約4000平方メートル)あたり300ドル〜400ドルという格安の値段で、木材の価格も低く、大工の労賃もニューヨークの4分の1から半分で済んだ。天候の荒れることの少ない快適な気候は年中仕事を可能にし、群衆場面のエキストラは1日2〜3ドルで済んだという。目利きの映画プロデューサーなら、バーベキューと素人に映画製作にかかわらせる喜びを与えるだけで群衆を集めたものだった。ある製作者の弁によると陽の光が絶えず降り注ぎ恰好の照明になり、ニューヨークで撮るより3分の1から半分はコストダウンできる、と記録している。1915年までにハリウッドの映画産業は約15000人を正式に雇い入れ、米国の映画製作の60%を占めていた。それが1925年には、ほとんど90%の映画製作をするまでになっていたという。1913年頃には"Movie"という言葉が一般的になり、世界中で映画ファンのための雑誌が創刊され(→キネマ旬報)、映画が産業として根付いてきたことを実証しはじめた。 こうして、MPPCという足枷を外した米国映画界は急激に成長を始め、各映画会社も様々な合従連衡を繰り返しながらも、ヨーロッパでの第一次世界大戦の影響も受けず、世界最大の映画製作国として、以後、現在に至るまで、質・量共に君臨することになる。この辺の詳細については、各映画会社の項目を参考のこと。しかもこの熾烈な業界内競争の過程で、1920年代後半のトーキー革命や1930年代の世界大恐慌も巧みに乗り越えていき、特に「ビッグ5」は製作・配給・公開のあらゆる面において、縦の系列化(vertical integration、ヴァーティカル・インテグレーション (映画用語))、すなわちチェーン化が進んだのである。例えば1930年代後半~40年代、MGMの製作したミュージカルは、一部の例外を除き、MGMの系列映画館しか上映できなかったのである。
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