スタジオ・システムの主な特徴
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「スタジオ・システム」の記事における「スタジオ・システムの主な特徴」の解説
スタジオ・システムの特徴として挙げられるのは、国内外のマーケットの巨大な要求を満足させる長編映画を製作するために、手早く安上がりな大量生産にターゲットを絞ったものであった。これは、よくフォード・モデルTの流れ作業にも例えられている。映画製作のための資金やマーケティングに関する部門は、東海岸のニューヨークに拠点を置き、会社の上層部がどの程度の資金をどんな種類の映画に投資するかを決定していた。この当時の映画はスターやジャンルによって分類されていたのである。製作会社の拠点のほとんどは、西海岸のハリウッドに集中していた。スタジオによって製作方法はかなり異なっていたが、製作部門はおおむね製作過程にそって実施され、それぞれの段階は専門の部門が担当した。従って、各部門で働く人間はその分野に限られた創造性しか生かせなかった。スターを含めた俳優たちにおいても、衣装部門・美術部門・特殊効果部門・撮影部門などでも、また脚本家や監督やプロデューサーに至るまで、長期契約に基づいて雇用され、スタジオの上層部によって、それぞれの企画へと割り振られた。(何人かのスターは、他のスタジオへ貸し出されることがあった。)多くの企画は、監督やその他のスタッフの才能に見合うと判断されたものであった。特に西部劇やメロドラマ、ミステリーなどの人気のあったジャンルは、制作費を抑えられ、逆に新作でも売上はある程度予測でき、スタジオ側には好都合であった。 映画製作上の芸術性や創造性のコントロールは、主にスタジオの重役が行っていたが、一握りの監督たち、ジョン・フォードやハワード・ホークス、フランク・キャプラ、ビリー・ワイルダー、アルフレッド・ヒッチコック、ジョセフ・フォン・スタンバーグのように、自らの企画に対してある程度の自由は認められていた。しかし、彼らにおいても、スタジオの要求するスタイル、あるいは得意とするジャンルという制約の下に活躍していたのであった。ちなみに、ほとんどの監督は他のスタッフやキャストと同様に、スタジオの厳しい品質管理に応えなければならなかった。 スタジオは、映画の製作だけでなく、自社の映画へ観客を取り込むためにも、ブロック・ブッキング(20本単位で作品を会社の所有している系列映画館だけに公開する手段)のような方法を使って、配給や上映も管理していた。このような複雑で統合された産業は莫大な利益を生むものであったが、その資金もまた高額であった。そのため、資本家やウォール街によってスタジオがコントロールされる傾向が大きくなった。たとえば、1930年代の大恐慌時代にパラマウントは破産へ、合併前のフォックスは財政難に、ユニバーサルとRKOは財産管理を強いられていった。しかし、いずれのスタジオも1935年までには内部組織を整理し地道に再建資金を集め、それぞれ復活する。ちなみに1930年代の米国の長者番付の連続第1位は、MGMの社長であった。 また、同時に映画の職人らで作られた低予算でのスタジオ(たとえばリパブリック社やモノグラム社などの所謂ポヴァティ・ロウ)もあったし、デヴィッド・O・セルズニックやサミュエル・ゴールドウィンらのような、独立系の大物の映画プロデューサーも中には存在したのである。しかし、1930年代終わり頃には、メジャー・スタジオが毎年75%以上の作品を配給し、各メジャー・スタジオだけでも年間40本以上を製作したのであった。また、メジャー・スタジオにおいては、大予算でトップスターが出演する「A級映画」('A' pictures)と比較的低予算でスターの数も少ない添え物的な「B級映画」('B' pictures)の数本立ての興業が同時に行われる様になった。日本で内容等が劣ることを総称して「B級」というのはここから由来している。 このシステムは、程度の差はあるが、イギリスやイタリア、ドイツ、日本、インドといった他の国々の映画製作においても、大なり小なり同様の工程が採用されていった。
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