スタジオ・システムの終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 07:25 UTC 版)
「スタジオ・システム」の記事における「スタジオ・システムの終焉」の解説
1948年、米国最高裁判所で10年越しのある判決が下った。時間がかかったのは、上訴や第二次世界大戦を挟んだためである。その判決とは、パラマウントと他の4つのメジャー(つまり「ビッグ5」)に対し、劇場チェーンを映画会社本体から切り離すようにという判決だった(en)("PARAMOUNT decrees"、"divorcement"(分離)、「パラマウント判決」)。これは、スタジオによる製作・配給・上映の所有権は独占的であると裁定し、所有する映画館を売却するようにスタジオ側に命じたのであった。さらに「ビッグ5」と「リトル3」のスタジオはブロック・ブッキングのような、拘束的な配給慣行を停止しなければならなかった。1948年から1958年にかけて、各スタジオはこのシステムの基盤であり映画産業に支配的であった縦の系列化を消滅させたのである。 それと共に、戦後の急激な観客動員数の低下や家庭へのテレビの台頭は、より一層のスタジオ製作を困難にさせた。もはやB級映画を製作できる余裕もなくなった。巨大な敷地を持っていた映画スタジオは、その広大な敷地を売却して不動産として現金化していった。また、ある撮影スタジオではテレビ番組のロケーション撮影用に外部へ貸し出すようになった。そして、急速な収益の低下は、スタジオで従事していた多くの従業員をもはや雇えなくなった。また、トップ・スターの契約をスタジオ側が引き留めることは困難であった。例えば1944年オリヴィア・デ・ハヴィランドのワーナー・ブラザースへの法廷での異議申し立ては認められ判例となったのである。これは、スターのギャラの高騰につながった。また皮肉にもパラマウント判決は、ロケ主体の低予算でスタジオにあまり頼らないインディペンデント(独立)系の小さな規模のプロダクション作品を奨励することとなった。外国やインディペンデント(インディーズ)系のプロデューサーが急速に米国映画市場に参入することになった。その流れとは逆に米国内のプロデューサーをより安上がりの製作費で挙げるために海外へと求め始めた。画面の大型化や豪華な超大作も逆にスタジオの一層の収益の圧迫をまねいた。こうして、1950年代後半スタジオ・システムはゆっくりと確実に終焉を迎えることになったのである。
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