ジェームズ・ケアード号の船旅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 11:27 UTC 版)
「帝国南極横断探検隊」の記事における「ジェームズ・ケアード号の船旅」の解説
詳細は「ジェイムズ・ケアード号の航海」を参照 エレファント島は剥き出しの岩や雪、氷でできた完全に不毛な土地で、救助を待つには適さない場所であった。島の海岸部にはアザラシやペンギンが比較的豊富に生息していたものの、どの位もつかは予測しづらかった。急速に迫りつつある南極圏の冬という懸念材料に加えて、島は探検隊が元々計画していた進路からかけ離れており、付近に他の船が通る通常航路もなかった。従って救援であれ何であれ他の船に出会える可能性は恐ろしく低いと考えられた。よって、今すぐ救命艇に毛の生えた程度の船で1,500km航海し、サウス・ジョージア島へ引き返さねばならないことははっきりしていた。ジェームズ・ケアード号の船旅は、かくして敢行された。 シャクルトンが僅か7mのボートで渡るその海は、世界でも最も苦難に満ちた海域に属すると評されている。シャクルトンは後にこの地域の暴風は殆どやむことが無かったと書いている。 近年の気象報告によると、ドレーク海峡では時速60〜70kmの暴風が年平均200日吹き、海面に高さ7mのうねりを発生させる。船乗り達はこの海域では更に大きな波も見られるとしばしば述べており、高さ20mの波も稀では無いという。気象学者によれば、この極端な気候は中緯度地域のコリオリの力によるものであり、それが遥か南方で強い東向きの気流となって南極圏を取り巻くのだという。陸地が無いので地球を巡る気流が邪魔されず、対応する強い海流を起こす。そこにホーン岬、南極半島、及び海面下の浅い地形が漏斗のように働いて、ドレーク海峡やその東のスコシア海で波を増幅するのである。無論これは船乗り達が何世紀にもわたりこの海域について知っていたことを単に裏付けるのに過ぎず、ドレーク海峡の航行が困難であることは元より折り紙付きである。船乗りはこうした危険な緯度をよく「吠える40度」「狂う50度」「絶叫する60度」と呼ぶ。 シャクルトンがエレファント島を出発した位置は南緯61度にあるドレーク海峡の南側境界であり、目的地は南緯54度にあるサウス・ジョージア島である。ジェームズ・ケアード号の乗組員は正に狂う50度のど真ん中に置かれることとなった。シャクルトンは4週間分以上の物資を船に積むことは拒否した。なぜなら、それまでに陸地に着いていなければ、船は間違いなく壊れているからである。シャクルトンと乗組員達は、最も近い陸地から何百マイルも離れた海上で、船の全長と同じくらい高い波と常時戦うこととなった。 出発の準備に当り、シャクルトンはサウス・ジョージア島へ同行する船員を選抜した。一方の手(訳注:半舷直?)としてティム・マッカーシーと経験豊富な航海士で勲章を受けた探検家のトーマス・クリーン、もう一方の手をジョン・ヴィンセントと探検隊の大工であるハリー・マクニーシュとした。ハリーは以前トラブルの原因となったことがあったため、シャクルトンは彼を敢えてエレファント島に残したくなかったようだ。ハリーは船の改良にすぐに取り掛かった。舷側を高くし、竜骨を補強し、木材とカンバスで間に合わせの甲板を作り、油絵の具とアザラシの血で防水処置を施した。航法という難しい仕事はフランク・ワースリーに託された。正しい航路を維持することは最重要課題であった。目的地を見失えば一行は確実に破滅するからである。悪天候と時化による大きなうねりにのし掛かられる中での航路の維持は難しく、太陽や月と対比した水平線を観測することが頼りだった。800海里の航程で、天測で航路を読めたのは僅か4回だけだった。 真夜中に私は舵の柄の所にいて、突如南西と南の間に一筋の晴れた空があるのに気づいた。私は他の隊員に空が晴れていると呼びかけたが、そのすぐ後に私が見ていたものは雲の割れ目ではなく、異常に大きな波の白い波頭だとわかったのである。海で過ごした26年間を通じて、これほどまで巨大な波に遭遇したことはついぞ無かった。それは強大な海の隆起であり、表面を白色に覆われ、幾日もの間我々にとっての不断の敵であった大きな海とは、極めてかけ離れたものであった。私は「神に掛けて掴まれ! 来るぞ!」と叫んだ。そして何時間にも感じられたような、緊張の瞬間が訪れた。白色が海を砕いたような泡の波となって襲いかかり、船が持ち上げられ、砕ける波の中のコルクのように、前方へ放り出されたような感じがした。我々は痛めつけられた水の逆巻く混沌の中にいたが、どういうわけか船はそれを切り抜け、水で半分満杯になり、過重量でたわみつつ、強打の下で震えていた。我々は必死になって船から水を汲み出し、両手に持ちうる全ての容器を用いて海水を外へ掻い出した。10分間の苦闘の後、我々は船が我々の下で生き返ったのを感じた。 — アーネスト・シャクルトン著『South』より。 14日後、乗組員達の視界に島が認められた。彼らは旅は成功したと感じ、元気づけられた。未知の海岸線へ夜間に上陸することを避けるため、彼らは沖合に戻って朝を待ったが、その頃にはハリケーン並の強風と共に激しい嵐が吹き始めていた。シャクルトンの乗組員達はこの大嵐と9時間も戦い、翌夕上陸するまで辛うじて海上に浮いていた。しかし他の船はこれほど幸運ではなかった。ワースリーが後に記したところによると、この同じ大嵐により、ブエノスアイレスからサウス・ジョージア島に向かっていた500トンの汽船が沈み、乗員全員が喪われた。
※この「ジェームズ・ケアード号の船旅」の解説は、「帝国南極横断探検隊」の解説の一部です。
「ジェームズ・ケアード号の船旅」を含む「帝国南極横断探検隊」の記事については、「帝国南極横断探検隊」の概要を参照ください。
- ジェームズケアード号の船旅のページへのリンク