シネマシティー渋谷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 14:55 UTC 版)
「第1回東京国際映画祭」の記事における「シネマシティー渋谷」の解説
シンボルマークをあしらった垂れ幕や旗で渋谷の街を埋め、道玄坂通り、東急本店通り、公園通り、原宿表参道を中心にシネマストリートを設立、渋谷を街ぐるみ、地域ぐるみで映画のお祭りに仕立て上げた。映画上映を離れた関連イベントは10以上で、お固い映像シンポジウムや特撮の展示会から、秘蔵フランス映画ポスター展、映画関連の展示即売会、チャリティー・テニス大会など、映画の縁日のような充実したイベントを組み、後発の映画祭のため、"開かれた映画祭"を目指した。渋谷駅前の忠犬ハチ公像の隣に高さ3メートル、ステンレス製のシンボル・モニュメントを建て、三角柱の側面に小津安二郎やジョン・フォード、チャールズ・チャップリン、マリリン・モンロー、クラーク・ゲーブル、田中絹代、溝口健二など、亡き世界の代表的映画人36人の横顔を並べた。36人を選んだのは淀川長治、双葉十三郎、筈見有弘、和田誠。イラストは和田誠。また道玄坂109の円柱形のエレベーター・タワー壁面に山高帽にステッキ姿の巨大なチャップリンのシンボルマークを掲示。国立代々木競技場内にプレスセンターを設置し、外国人報道関係者にIDカードを発行した。主会場の渋谷NHKホールにはカチンコを模した巨大看板を取り付け、渋谷駅からNHKホールに至る公園通りには、丸井新館の液晶スクリーンを配置し、映画の名場面を流した。また日本電信電話公社などが商品化した「キャプテンシステム」とは別方式のNAPLPS方式のビデオテックス事業として、三井物産やソニー、野村証券などが設立した「東京テレガイド」、三菱商事、三井物産や凸版印刷が設立した「ビデオテックス・ジャパン・ネットワーク」の三社が日本初の最大NAPLPS型ビデオテックス・ネットワークとして「プレビュー・プラザ・ビデオテックス・ネットワーク」と名付け、東京国際映画祭で初めて渋谷・原宿地区に端末機を計80台を置き、映画祭情報などを流した。NHKホールに期間中入場したお客にはバラの花を配り、6~7000本を用意した。ハチ公前広場、109前、パルコPart1前などに屋外ステージを設置して数々のイベントを催した。 渋谷は元々、東急グループの城下町だったが、宇田川町周辺にセゾングループが進出して街のイメージが大きく変わったこともあり、東急はこの東京国際映画祭を機会に新しい街づくりをと気合を入れた。東京急行電鉄は東急の総帥・五島昇が会頭を務める東京商工会議所が映画祭を後援し、渋谷が開催地ということも重なり2億円を寄付した。東急エージェンシーは、銀座、新宿に代わる若者の街・渋谷をアピールし、東急グループの本拠地の振興を企図、「映画祭のある街」という企画を立て、総額2億6000万円の予算を組み、渋谷、原宿の目抜き通りの街頭装飾やイベントを丸ごと広告媒体として使用するというプロジェクトを組んだ。渋谷のような繁華街を一企業が買い取る形は前例のない試みで、スポンサーは期間中に渋谷、原宿の目抜き通りの街頭に吊るされる旗(バナー)約1200本とビルに吊るす懸垂幕に自社の名前を入れられ、様様なイベントで広告活動等が出来た。また後述する映画祭の企画のうち、協賛プログラム(スポンサー企画)の三つは、スポンサーではなく、東急エージェンシーと電通が代理店として企画したもので、「TAKARAファンタスティック映画祭」は東急エージェンシーが代理店を請け負い、宝酒造がスポンサーになった。また当時の百貨店は年間44日の休業が義務付けられ、旧百貨店法時代から営業する店舗は「休業日は月に4日、7月と12月は各2日」と枠がはめられ、この枠を取り払うには、地元との調整や労組との交渉が必要で、これまではどの百貨店も二の足を踏んでいた。東急百貨店本店・東横店は映画祭期間中の1985年6月6日の木曜日が定休日に決まっていたが、映画祭期間中は無休にしたいと鈴木育延同社総務部長が一年前から、地元商店街の夜間の美化パトロールや冠婚葬祭や宴会などで付き合いを深め、街路灯や歩道のタイル舗装などに資金を出し、1984年末、東京商工会議所の商業活動調整協議会に休業日の月別の枠を外すことを申請し認められ、東急百貨店は映画祭期間中は無休で営業し、さらに歳末商戦の12月も無休にする合意を地元商店街と取り付けた。寝耳に水の申請に西武百貨店など渋谷、新宿、銀座の百貨店は、関東百貨店協会の緊急理事会を急遽招集し、業界がそろって枠を外すという結論を出した。この動きは全国に波及した。 当時は東急百貨店本店北隣に多目的ホールを計画中(『Bunkamura』)で、将来的には〈東急文化村〉で〈西武・公園通り〉に対抗する構えでいた。組織委員会会長の瀬島龍三は財界活動をして来なかった人だったが、1978年に五島昇と永野重雄日本商工会議所会頭に請われ、日本商工会議所特別顧問、東京商工会議所副会頭に抜擢され、以降、活発に財界活動を行うようになった。実行委員長の岡田茂は東急グループの人物で、東急エージェンシーの当時の社長・前野徹は「岡田茂を囲む会」のメンバーだった。このため東京国際映画祭は、渋谷の再開発を狙う東急グループのイベントという見方もあった。 これに対して西武グループはぴあと組んでぴあフィルムフェスティバルの共催企画「映画渡世・マキノ雅裕」を行ったが、東急よりも冷ややかだった。 1983年12月に東京国際映画祭が渋谷で開催されるという正式発表があったとき、池袋の小劇場の代表と忘年会をやっていた新文芸坐の三浦大四郎社長は、これが悔しくて酔った勢いで「我々は演劇祭をやろう」とぶち上げたのが『東京国際演劇祭'88池袋』(フェスティバル/トーキョー)の始まり。東京国際映画祭前の開催を準備していたが、予算や都有地の使用許可が遅れ1988年までずれ込んだ。
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