グレート・ジンバブエの歴史
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「グレート・ジンバブエ遺跡」の記事における「グレート・ジンバブエの歴史」の解説
グレート・ジンバブェ遺跡の居住が始まったのは、紀元前2500年ごろからで、「アクロポリス」の西方に集落が築かれた。そのころ、グレート・ジンバブェの南方のリンポポ川の中流とその支流シャシ川の合流地点にもショナ人による集落が形成され、それは大きく発展して575年ごろ有力な支配者が現れてマプングウエの柳葉状の丘に石造建造物を築いた。マプングウエは、周囲9haほどの「都市」となり、金の中継貿易で繁栄し、研究者は、リンポポ川中流域を支配する人口12000~15000人規模の「マプングウエ国」という小王国を想定している。グレート・ジンバブエは、650年ごろ、石壁をもつ建造物を造りはじめる。 一方、この頃のリンポポ川流域は、旱魃にみまわれ、イスラム商人たちは、より北方のサビ川流域の交易ルートを開発し、マプングウエはこのことによって急速に衰退することになる。一方、サビ川上流にあるグレート・ジンバブエは、これを契機に大発展することになった。ジンバブエ高原南西部の金の産地とインド洋沿岸を結ぶ直線上に位置したグレート・ジンバブエは、リンポポ川流域を経由するよりはるかに便利な立地にあった。標高1000mの立地は、谷間のマプングウエにくらべ、眠り病の病源体を媒介するツェツェバエの生息域からはずれ、多少の起伏は、牛の移牧にも適していた。また、高原とリンポポ河谷の接点という立地は、比較的雨にも恵まれ、農業を行うにも適していた。グレート・ジンバブエの人々が栽培して食糧にしていたのは、モロコシ、アワ、シコクビエ、トウジンビエ、エンドウ、豆の一種で、ピーナッツのように地下に豆をつくるバンバラマメなどであった。 インド洋との交易ルートの中継地を握ったグレート・ジンバブエは、9世紀頃から発展し、グレートエンクロージャーをはじめとする大多数の建造物はこの時期に建てられたと考えられる。このころの人口は7000世帯人口35000人に達したと推定されている。「グレート・ジンバブエ国」の「王」は、遠隔地交易と金属加工業を保護し、遺跡からは、鉄製品として二股ゴング、日用的な道具の鋤やスプーン、多量の鉄くず、アフリカ中央部の広域にわたって使用された十字ないし×状の銅製品を造るための滑石製鋳型、儀礼用槍先などの銅製品、綿布生産に使用された石製紡錘車や土器片を転用した円板、金細工、ガラスビーズ、タンザニアのキルワで鋳造された金貨、中国の元、明代の陶磁器などの出土品が当時のグレート・ジンバブエのさかんな交易と産業の発展を物語っている。十字型銅製品は北方のザンベジ川中流以北で一種の通貨のように用いられていたもので、鉄製二股ゴングは、西アフリカで「神聖王」の権威を表すものであって、グレート・ジンバブエの王の権力と経済力の象徴であった。 しかし、発展の拡大は衰退の要因と表裏一体であった。農業の展開と人口集中は、燃料や石造建築物の内部を補う建築材料としての木材の大量伐採をもたらし、遠方まで行かないと木材の確保がおぼつかなくなることになった。さらに、栽培と移牧の繰り返しは、それほど地力のないサバンナの土壌を疲弊させた。そのため耕地は、都市の中心部からますます遠ざかることになった。さらにより北側の交易ルートの開発が追い討ちをかけた。モザンビークのソファラ沿岸は、海岸の浸食によって良港を失った。また、サビ川の河口が土砂の堆積によってふさがりつつあったため、イスラム商人は、より北側のザンベジ川流域の集落とジンバブエ高原北東部の金の取引をするようになった。このことは、グレート・ジンバブエの経済に深刻な打撃を与え、建築材の木材の放射性炭素年代測定から判明したように、15世紀後半頃に一定規模の気候変化、旱魃、飢饉等のなんらかの天災がおき、グレート・ジンバブエは放棄されたと考えられている。そして15世紀中頃から16世紀にかけて、ザンベジ川中流域にモノモタパ王国(ショナ語で「ムニュムタパ」)、ジンバブエの西方、現ブラワヨ近郊のカミ遺跡を首都としたトルワ王国が台頭することになる。
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