一〇〇式司令部偵察機
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キ46 一〇〇式司令部偵察機
「新司偵」
注釈
- ^ 制式表記は一〇〇式(一〇〇式司令部偵察機)であるが、資料により百式(百式司令部偵察機)とも表記される。
- ^ 略さず新司令部偵察機とも。
- ^ のち、三菱自動車工業社長。
- ^ 初代司偵である九七式司偵は九八式陸上偵察機として海軍に制式採用されている。日中戦争時、陸軍司偵隊の活躍に刺激された海軍は、日本軍を代表するテスト・パイロットである荒蒔義次大尉が隊長を務める独飛18中の協力により陸上偵察機隊を創建し九八式陸偵を採用した。なお、この時に陸軍司偵隊から指導・教育を受けた臨時陸偵隊の千早猛彦海軍大尉は海軍陸偵隊の筆頭として日中戦争に従軍し、太平洋戦争期には真珠湾攻撃後の帰途機誘導や、彩雲で名を馳せる第一二一海軍航空隊の飛行隊長を務め活躍したものの1944年6月11日に戦死した。
- ^ 陸士46期、最終階級は陸軍少佐。片倉衷陸軍少将(下志津教導飛行師団長等を歴任)の弟。片倉陸軍大尉は、白城子陸軍飛行学校教官を経て飛行実験部員に復帰することとなった荒蒔義次陸軍大尉の後任として独飛18中隊長となったのち、司令部偵察機生みの親である藤田雄蔵陸軍航空兵中佐(陸軍航空技術研究所)の後を継ぎ、後身の陸軍航空審査部飛行実験部にて終戦まで偵察隊長として司偵機を担当した。
- ^ 仮制式制定は事実上の制式採用でありこの後に制式制定される。
- ^ なお、戦後アメリカ軍がハイオク燃料や高品質点火プラグを使用し日本機の性能テストを行った際、四式戦「疾風」は実用化された日本軍戦闘機では史上最速である689km/hを記録した。一〇〇式司偵もそれを凌駕する記録を出した可能性はあるが、アメリカ軍による記録は残っていない。
- ^ 機体の流麗さから使者ではなく天使と呼ばれた。
- ^ ただし防空戦闘機として機関砲と弾薬、およびタ弾(50kg爆弾2発)を爆装する場合は必然的に重量増となり、高空で従来の高速度を発揮し得たかは未検証である。
出典
- ^ a b 『世界の傑作機』 p.14 - p.15
- ^ 一〇〇式司偵を収蔵しているイギリス空軍博物館ウェブサイトの本機説明ページ序文(2015年6月15日閲覧)より
- ^ 『世界の傑作機』 p.16
- ^ 『世界の傑作機』 p.17
- ^ a b c d 『世界の傑作機』 p.17
- ^ a b c d e f 『世界の傑作機』 pp.18 - 19
- ^ やまももの木は知っている ヤマハ発動機創立時代のうらばなし - ヤマハ発動機の技と術 - ヤマハ発動機
- ^ 渡辺洋二 『兵器たる翼』 光人社、2017年、pp.64 - 72
- ^ 『世界の傑作機』 p.66
- ^ 渡辺洋二 『異なる爆音』 光人社、2012年、p.189
- ^ 渡辺洋二 『航空戦士のこころ』 光人社、2013年、p.25
- ^ 碇 1997年『新司偵』
- ^ 『世界の傑作機』 p71
- ^ 『世界の傑作機』 p.38
- ^ 檜與平『つばさの血戦―かえらざる隼戦闘隊』光人社NF文庫、1984年、p.160
- ^ 碇義朗『新司偵』第二次世界大戦ブックス85 pp.158-162
- ^ 戦史叢書 22 P.116
- ^ “旧陸軍 秘密兵器「空中機雷」の正体 「一〇〇式司偵」に搭載し戦果6機の本当のところ”. 乗りものニュース. 2020年4月29日閲覧。
- ^ 『世界の傑作機』p.6
キ46(キ46-I)
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「一〇〇式司令部偵察機」の記事における「キ46(キ46-I)」の解説
陸軍航空技術研究所の藤田雄蔵陸軍航空兵大尉(当時)の進言により開発された、初の長距離高速偵察機である九七式司令部偵察機は採用間もない1937年(昭和12年)7月に勃発した日中戦争(支那事変)に同年8月から投入され、各地の隠密偵察で活躍し大きな成果を挙げた。帝国陸軍は早くも後続司偵機の構想を打ち出しており、同年12月27日に九七式司偵を開発した三菱に対して以下の要求性能とともにキ46開発を命じた。 常用高度 : 4,000m - 6,000m 最大速度 : 600km/h/4,000m 航続距離 : 400km/h/4.000mで6時間 エンジンは中島飛行機製ハ20乙・中島製ハ25・三菱製ハ26の何れかを使用。 乗員は2名の複座(操縦者・偵察者兼機上通信)、装備は無線装置一式および写真装置・酸素吸入装置各一式、武装は自衛用に後席旋回機関銃1挺。 このほか、操縦性として良好な安定性、水平直線飛行の正確安易さ、各舵の効き良くバランスが取れていることも要求されている。 開発にあたり三菱は設計主務者に久保富夫技師(九七式司偵設計主務者河野文彦技師は指導役)、陸軍側開発・審査主任のテスト・パイロットは陸軍飛行実験部実験隊偵察機班(のち陸軍航空審査部飛行実験部偵察隊)の片倉恕陸軍大尉がそれぞれ担当した。 最大速度600km/hは当時の世界水準を遥かに超えたものでありこれら要求数値は厳しいものであったが、反面、陸軍は機体形状やエンジン数の指定、重武装といった無理な要求はしなかったため、三菱側はある程度自由にキ46を設計することが出来たことが本機の成功に繋がっている。まず問題になった単発か双発かについては航続距離で有利なアスペクト比の大きさや故障や被弾時の生存性を考え双発に決定、液冷エンジンと異なり前面積が大きく高速化に不利とされていた空冷星型エンジンの処理については、東京帝国大学航空研究所の河田三冶教授の協力により空気抵抗の少ない新開発のナセルを使用することで克服、また機体自体も流麗な形状とすることで抵抗減少が図られている。降着装置は主輪・尾輪共に引込式であり、引込後に閉じられる扉の採用(完全引込式)は日本の双発機としては初であった。エンジンは自社製で気心の知れているハ26(ハ26-I)が選ばれた。 キ46試作第1号機(「4601」)は1939年(昭和14年)11月(8月ともいわれている)に完成し、三菱のテスト・パイロットである江口操縦士によって各務原陸軍飛行場で初飛行に成功した。機体は立川陸軍飛行場に移され基本審査を、さらに陸軍偵察隊の総本山である下志津陸軍飛行学校での実用審査、満洲での寒冷地試験、飛行実験部での補足実用試験および各種テストを受け、翌1940年(昭和15年)8月10日(6月ともいわれている)にこれら一連のテストを終えた。期間中に試作第1号機は改修が加えられ、また試作機・増加試作機として第2 ~ 8号機も製作されテストに投入されている。 このキ46試作機はテスト中に最大速度540km/h/4,100mを記録。この数値はのちの一式戦闘機「隼」一型(キ43-I)および零式艦上戦闘機二一型両機の最高速度(500km/h前後)を共に凌駕するものであったが、要求の600km/h/4,000mにはおよばず、また欧米列強の新鋭戦闘機と比べても決して優速ではないことが同年8月21日の軍需審議会幹事会(新型兵器の制式採用を決定する場)で問題となった。しかし、安定性・操縦性などは問題なく優れた素質をもった機であることは立証されていたため、引き続き性能向上を図ることを希望条件に仮制式制定上申、1940年(皇紀2600年)9月下旬頃に一〇〇式司令部偵察機として制式化された。のちに後述のキ46-IIが一〇〇式司令部偵察機二型として制式制定されたため、本機はキ46-I 一〇〇式司令部偵察機一型となる。
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