カスター中佐による虐殺
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「ウォシタ川の戦い」の記事における「カスター中佐による虐殺」の解説
一方、アメリカ軍ミズーリ方面軍指揮官のフィリップ・シェリダン将軍は、もはやインディアン相手の和平交渉は不可能であるとして、交戦派のインディアンの集落そのものに対して焦土作戦を行うと決めた。冬季作戦は深刻な兵站問題に直面するが、また決定打となる可能性もあった。もしインディアンの住居、食料および家畜を破壊するか捕獲してしまえば、インディアンたちは白人の配給に縋るしかなく、降伏以外の何者も残されなくなると算段したのである。シェリダンは、テキサス州の回廊地帯の真東にあるインディアンの冬季野営地に3つの部隊を合流させる作戦を立てた。1隊はコロラドのライアン砦から、1隊はニューメキシコ準州のバスコム砦から、もう1隊はインディアン準州内に造られた保留地のインディアンの年金支給所である「支給基地」から出撃させることとした。その頃、カスター中佐が指揮する第7騎兵隊がウォシタ川沿いでインディアン達を見付けた。 1868年11月27日、カスター配下のオーセージ族斥候が、インディアン戦士隊の通った跡を見つけた。カスター隊は夜になるまで終日休みなくこの跡を辿った。夜になったときに小休止を取っただけで、月明かりを頼りに追跡を続けた。最終的にカスター隊はブラック・ケトル・バンドの野営に到着した。カスターはその部隊を4つに分け、それぞれの隊が夜明けとともに同時に野営を襲撃できるよう手配した。夜明けに各部隊が襲撃を始めた。米兵の進軍ラッパに目覚めたダブルウルフが銃を発砲したため、インディアンたちは米軍の襲撃を知った。ダブルウルフはこの米軍の襲撃で、最初の犠牲者となった。インディアン達は慌ててティーピーを離れて樹木や深い谷の陰に身を隠した。カスターは直ぐに野営を制圧したが、生き残った戦士たちを皆殺しにするにはてこずった。 突然の白人の襲撃に、ブラック・ケトルはもはや逃げようとはしなかった。「サンドクリークの虐殺」を経て、白人はここに再び和平協定を破った。その妻メディシン・ウーマン・レイターとともに、自分のティーピーのそばで射殺された。ブラックケトルの頭の皮を、オーセージ族の斥候が剥いだ。カスターはブラック・ケトルたちの虐殺を終えた後で、間もなく自分が危険な立場におかれていることを知った。襲撃が下火になり始めたときに、カスターは大集団の騎馬インディアンが近くの丘の上に集まっていることに気付いた。カイオワ族やアラパホー族、シャイアン族がブラック・ケトル・バンドの危機を察して救援に駆け付けたのである。 ここで初めてカスターは、ブラック・ケトル・バンドの野営は、川沿いに野営している多くのインディアン部族の野営のなかの1つに過ぎないことを理解したのである。カスターは救援隊の攻撃を恐れて、急いで部隊に防御体制をとり、また殺したシャイアン族インディアンの所持品や馬を収奪するよう命じた。運べないと判断された物品は破壊され、 200頭の馬やポニーはシャイアン族の捕虜と一緒にまとめた。 カスターは襲撃前に、動きやすいよう部隊兵に厚地のオーバーコートを脱いでおけと命じていた。後方に置いた食料とコートのために、少数の見張りをつけたが、インディアン救援隊の数があまりに多かったので見張りは逃げてしまった。この見張りはインディアン救援隊に捕まってしまった。 カスターはインディアン救援隊を恐れ、日暮れ時によそのインディアン野営地に向けて撤退を始めた。周囲で野営していたインディアン達は、カスター隊が近づいて来るのを見て、ブラック・ケトル・バンドの二の舞を避けて逃げた。こうしてカスター隊はうまく輜重隊まで撤退できた。かくしてウォシタ川の大虐殺は終わった。 カスターが11月28日にシェリダン将軍に宛てた最初の報告では、「戦闘後の実際の注意深い精査により、戦士103名の死体が見つかった」としている。「支給基地」にいたシェリダンはこの数字をオウム返しに、翌日W・A・ニコルズ名誉少将のもとに伝えた。実際の戦場で死体を数えることは行われなかった。カスターの挙げた数字は戦闘翌日の夜にその士官達に尋ねたことに基づいており、兵士達が「支給基地」に戻る行軍中に野営地を造った後のことだった。カスター隊にいた文民の推計値もかなり少ないものだったうえ、カスターはまた、無差別に殺した無抵抗の子供、幼児の数は一切報告しなかった。 アメリカ陸軍軍事史センターによる近年の集計に拠れば、ウォシタ川の虐殺で第7騎兵隊は21人の士官と兵士が戦死し、13名が負傷した。インディアンはおそらく50名が戦死しさらに多くが負傷したことになっている。戦死した兵士の内の20名はジョエル・エリオット少佐が率いた小さな分遣隊の一部であり、エリオット自身も戦死者に入っていた。エリオットは率いていた3個中隊と分かれており(明らかにカスターの承認無しで、「ここには名誉か死かしかない」と叫んだ)、ブラック・ケトル・バンドの避難民たちを追いかけていた。エリオットの部下達は、川の上流側の野営から救援にやってきたシャイアン族、カイオワ族およびアラパホー族戦士の混成隊の中に突入し、戦死していた。戦士達は1回の突撃でその小さな部隊を圧倒した。カスターがエリオットの安否を確かめもせずに突然撤退し騎兵を失ったことは、軍隊で同格の者達の中でカスターの評判を落とし、第7騎兵隊の中で癒えることのない深い不満を残した。しかしこの働きに関してはウィリアム・シャーマン将軍とシェリダン将軍からお褒めの言葉を賜っている。
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