ウェザビー政権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 22:32 UTC 版)
「ローレンス・ウェザビー」の記事における「ウェザビー政権」の解説
ウェザビーの任期初期に、州財政朝鮮戦争の影響を受けて膨れ上がった。州の財政では出来高払いを採用してきており、戦後はさらに歳入を上げることを強いられた。ウェザビーは紙巻きたばこ、アルコール飲料、さらにパリミュチュエル方式の賭け事など罪悪税を課することで対応した。しかし、消費税を課することについては議会を説得できなかった。 ウェザビーの親しい家族の構成員3人が州道の交通事故で死亡したので、ウェザビーにとって道路の改良が優先事項になった。クレメンツ政権のときに成立したガソリン税増税、ガロンあたり2セントを使い、ウェザビーの任期中に6,000マイル (10,000 km) 近い道路の建設、再建、再舗装を行わせた。この中でも重要な場所は、州では初の有料道路であるケンタッキー・ターンパイクであり、ルイビルとエリザベスタウンを繋いだ。ウェザビーは時の大統領ドワイト・D・アイゼンハワーに五大湖とメキシコ湾を結ぶ有料道路の建設を推奨した。他の政治指導者がウェザビーに同調し、以前から論じられていた州間高速道路体系の建設についてアイゼンハワーを説得した。改良された道路が観光客を増加させ、それで州立公園体系の予算を増やし、ケンタッキー州とバージニア州が共同で保有するブレイクス州間公園を追加することができた。ウェザビーは州内で個人的なスポーツ遠征を行うことで、狩猟と釣りの好適地としてのケンタッキー州を全国に印象づけた。 ウェザビーは、まだ農業が主流の州経済を多様化する試みも行った。農業工業開発委員会を拡大し、工業用適地として特定するために土地の測量を実行させた。州内で近代的空港の開発を奨励し、ビッグサンディ川の運河建設や、ケンタッキー川の閘門とダムの改良を奨励した。州の商工会議所が行うツアーを自ら先導することも続けた。その任期中に州内に誘致された企業には、ルイビルのゼネラル・エレクトリック・アプライアンス・パーク、パデューカのパデューカ・ガシアス・ディフュージョン・プラントがあった。1954年、西部炭田のセントラルシティなど各地で起こった労働者の争議については、州警察を送って鎮めた。しかし、工業界の手先にはならなかった。露天掘りを規制する最初の州法を成立させ、1954年には労働権法を廃案にした。 ウェザビーは農業の必要性を無視したわけではなかった。その緑の牧草計画の下では、栽培穀物の多様化、牛肉生産の改善、土壌保全の奨励を行う法が成立した。ソルト川、リッキング川、ケンタッキー川流域には国の洪水制御計画を適用させ、貴重な農地を守った。1952年、州の農業官僚の仕事を統合する農業委員会を編成した。ルイビルでクレメンツ政権で始まっていた州の催事グランド建設を完工まで監督し、州の農業の豊かさをうまく見せるようにした。 教育分野の改良はウェザビー知事としての任期で特筆ものだった。その政権運営の中で、教育費予算を年間2,000万ドル増加させた。教育用テレビネットワークの創設を要求し、州初の移動図書館計画に予算をつけた。1954年、最小基金計画を支持し、生徒数ではなく必要性に応じて教育学区に予算を割り当てることを認める憲法改正を進めた。I1954年と1955年、ウェザビーは南部知事会議の議長を務め、アメリカ合衆国最高裁判所の「ブラウン対教育委員会裁判」判決で出された、学校の人種統合命令を平和的に実行することを奨励した。人種統合に反対する声明への署名を拒否した南部の州知事5人の1人となった。ケンタッキー州では、公立学校の人種統合を監督させるために白人と黒人双方による諮問委員会を指名し、ほかの州に比べて、それほどの険悪さを生まずに実施させた。人種統合は、ウェザビーと副知事の"ドク”・ビーチャムの意見が合わなかった問題だった。しかしビーチャムはウェザビーの跡を受けて州知事になる望みがあったので、公然とウェザビーの行動に反対することはなかった。 ウェザビーの知事としての業績には他に、精神医療局の創設、州内全体に置かれた15の総合病院と30の健康センターの建設があった。1952年、非行少年に対する管理を行う中央機関として青年局を創設した。新しい州立刑務所を建設し、執行猶予と仮釈放の制度を近代化し、大陪審や陪審員を選ぶ仕組みをより秩序だったものにした。また選挙民が望む地域には選挙マシンを購入する予算を確保するなど選挙制度の改革も監督した。行政改革の分野ではそれほど成功しなかった。州憲法を改訂して、州知事が連続して任期を務められるようにしようとしたが、失敗した。州内の郡のいくつかを統合させることに、支持を得られなかった。1955年、州民は18歳以上の普通選挙を認める憲法改定を承認したが、これにウェザビーは反対していた。
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