アメリカン・バーレスク
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「バーレスク」の記事における「アメリカン・バーレスク」の解説
詳細は「アメリカン・バーレスク」を参照 アメリカン・バーレスクは上記のようにヴィクトリア朝のバーレスクの流れをくむ。1840年代からニューヨークではイギリス式のバーレスクが上演され、成功を収めていた。イギリスのバーレスク一座である、リディア・トンプソンとブリティッシュ・ブロンズは1868年に初めてニューヨークを訪れ、人気となった。ニューヨークにおけるバーレスクショーが、当時人気のあったミンストレル・ショーの要素と構成を取り入れるまで時間はかからなかった。当時のショーは三つのパートから成った。まず歌と、低俗喜劇の役者による滑稽で猥雑なスケッチ、次にオリオと呼ばれる軽演劇と男性によるアクロバット芸や手品、独唱などの混成パート、三つめが合唱であり、時にはここにイギリス流の社会風刺のバーレスクがはいったり流行の芝居がはいる。興行はたいていストリップショーかレスリングかボクシングで締めくくられた。 19世紀の終わりにかけてイギリスではバーレスクが次第に時代遅れになり、代わりにエドワーディアン・ミュージカル・コメディ(英語版)が盛んになった。それにあわせてアメリカ式のバーレスクの人気は最高潮に達するのだが、これは女性のヌードへの関心の高まりの裏返しであった。シリアの生まれを思わせる東洋風の出で立ちをした「クーチ」と呼ばれるエロティックなダンサーが登場するのもこの頃である。ミュージックホールや劇場と同じ数だけ、クラブやキャバレーでも興行が打たれた。20世紀のはじめには、国民的なバーレスクショーの興行網が2つあり、寄席演芸や「ウィンターガーデン」のミンスキーバーレスクのような地元の劇団と人気を競いあった。 アメリカン・バーレスクはその出し物を伝統的な路線から次第にストリップショーへと移行していった。はじめはスブレットが歌い踊りながら自らの身体をひけらかした。その中には動きに劣る者もいたが、かわりに彼女は凝った舞台衣装で観客の目をひいたのである。そして徐々に歌って踊るスブレットにとってかわってストリッパーが主役となった。アメリカには1932年までに少なくとも150人のストリップをこなすパフォーマーがいた。30年代から60年代頃までに活躍したスターパフォーマーはサリー・ランド、フェイス・ベーコン、ジプシー・ローズ・リー、テンペスト・ストーム、リリ・セイント・シア、アン・コリオ、ブレイズ・スター、マギー・ハートなどであり、彼女たちはロレンツ・ハートやコール・ポーターの歌詞に登場するほど有名だった。バーレスクのパフォーマーはストリッパーやバーレスクダンサー、バーレスクアーティスト、ショーガールなど、さまざまな名前で呼ばれた。1930年代の後半には、バーレスクショーは最大で6人のストリッパーを1人か2人のコメディアンと1人の司会者がサポートする形式が主流になっていった。キャリアの初期にこの道化役としてバーレスクショーに出演していた俳優(女優)には、ファニー・ブライス、メイ・ウエスト、エディ・カンター、アボットとコステロ、W・C・フィールズ、ジャッキー・グリーソン、ダニー・トーマス、アル・ジョルソン、バート・ラー、フィル・シルヴァース、シド・シーザー、ダニー・ケイ、レッド・スケルトン、ソフィー・タッカーがいる。 バーレスクが催される空間に開放的な雰囲気があったのは、アルコールが飲み放題であったことが大きな理由の一つであり、禁酒法の施行によりバーレスクは壊滅的なダメージを受けた。ニューヨークでは、市長であったフィオレロ・ラガーディアがバーレスクを取り締まり、1940年代のはじめにはバーレスクをショウビジネスから閉め出すほどの成果を上げた。アメリカの各地でほそぼそと興行は続いたものの、次第に関心は失われ、1970年代には、劇場であたりまえのようにヌードが披露される文化は「みじめな末路」をたどった。アメリカン・バーレスクの衰退期とその後を捉えることをテーマにした映画に『バーレスクの貴婦人』(1943年)や『ストリッポラマ』(1953年)、『ミンスキー劇場にガサがはいった夜』(1968年)がある。
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