バーレスクの歴史
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「ニュー・バーレスク」の記事における「バーレスクの歴史」の解説
詳細は「アメリカン・バーレスク」を参照 1860年末にリディア・トンプソンとブリティッシュ・ブロンズ一座がイギリスからアメリカに持ち込んだヴィクトリア朝のバーレスクはセンセーションを巻き起こした。ブリティッシュ・ブロンズ一座は伝統的な舞台の演目をパロディ化し、当時としては露出度が高いと考えられていた衣装で男役を演じる女性たちを売り物にしていた。 アメリカのバーレスクはすぐにミュージックホール、ミンストレル・ショー、ストリップティーズ、コメディ、キャバレーなどのスタイルを吸収した。結果的にバーレスクは1920年代から30年代のフォリーズ(フローレンツ・ジーグフェルド・ジュニアなどが行っていた派手なレビューショー)から40年代、50年代のガーリー・ショーへと発展し、最終的には現代のストリップクラブに道を譲ることとなった。バーレスクにおけるストリップティーズの要素は地域ごとにさまざまな取り締まりをうけるようになり、このため検閲に抵触せずに性的なくすぐりをする舞台演芸としての形式ができあがるようになった。 1930年代末期までに、社会的取り締まりによって徐々にバーレスクショーは衰退していった。ショーの形式も、お色気満載のアンサンブルヴァラエティショーから、主にストリップティーズを中心とする単純なパフォーマンスに徐々に変わっていった。ニューヨークではフィオレロ・ラガーディア市長がバーレスクを取り締まり、1940年代初めまでには、実質的にバーレスクビジネスの営業はできなくなってしまった。バーレスクはアメリカ合衆国の他の地域ではまだ残っていたが、どんどん顧みられないようになり、 劇場や映画館で裸がふつうに見られるようになった1970年代までには、アメリカのバーレスクは「最終的にみすぼらしい終焉に」向かうこととなった。 興隆期のみではなく、衰退期以降においても、映画でアメリカのバーレスクのスピリットを伝えようとする試みはあった。たたとえば『妾は天使ぢゃない』(1933)ではメイ・ウエストがバーレスクショーを行った。1943年の映画『バーレスクの貴婦人』(Lady of Burlesque)はバーレスクパフォーマーたちの舞台裏の暮らしを描いている。ピンナップガールのベティ・ペイジは映画『ストリッポラマ』(Striporama, 1953)の一番有名な呼び物だった。こうした映画では、女性たちは露出度の高い服装をしていたが、全裸は一切なかった。映画The Night They Raided Minsky's (1968)は、アメリカの古典的なバーレスクを楽しく再現するような内容だった。
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