プロレスの研究と分析
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 04:25 UTC 版)
20世紀初頭にプロレスは「スポーツ」としての機能が欠けていることが明らかになると、教育を受けていない労働者階級にとっての安価な娯楽として見下されていた。ただしこれが常に当てはまるとは限らなかった。 その人気の高まりとともに、プロレスは学術研究とジャーナリズムの批判の対象として注目を集めていく。多くの研究者が論文、エッセイによってプロレスリングの慣習、内容、そして現代社会におけるその役割を分析してきた。多くの場合演劇学、社会学、パフォーマンスやメディアに関する研究の一部として取り組まれている。マサチューセッツ工科大学は、プロレスの文化的重要性に関する研究コースを開設し、人類学者のヘザー・リーヴァイはメキシコのルチャリブレの文化についての民族論文を発表した。 社会文化論としては塩見(2008年)、ボール(1993年)のほか文化としてのプロレス、 プロレスの社会学的考察、ルチャ・リブレ : 覆面レスラーのリンクなど、多くの論が展開されていた。 医学では日本では総合病院水戸協同病院でみちのくプロレスをもじった「みとのくプロレス」という症例検討会が開催されているほか、「リハビリプロレスリング」と銘打っているシンポジウムもある。 このほかにジェンダー論政治学、経営論(例えば川田利明)、軍事、心理学、地域活性化、映像科学、音楽学などでの言及がみられる。 フランスの理論家ロラン・バルトは1957年に最初に出版された彼の著書『Mythologies』のエッセイ「TheWorld of Wrestling」で、レスリングはより深い分析に値することを最初に提示した。バルトは次のように主張した。血に飢えているとすれば喜んで観客のための演劇モードになり、これは無知な者の詐欺としてではなくて光景として見られるべきであるとしたが、このときレスリングは並置された意味をすぐに読むことを要求し実行される芸術として説明され、論理的な結論ではレスラーやレフェリーは演劇の演者よりその重要性は最低である。バルトによればレスラーの役割は勝つことではなく、期待される動きを正確に通り抜け、観客に劇の光景を与えることであるとしたが、この論と解釈はその後のレスリングに関する研究では基礎事項となっていく。 さらにプロレスは古典的な英雄の統合 、コンメディア・デッラルテ、復讐悲劇、道徳劇、そしてアメリカン・バーレスクなどの他、「男性向けのメロドラマ」と比喩されることも多く、過去の文学や演劇の世界の役割を果たし、今日に存続するプロモーションによって描かれたキャラクターとストーリーラインも当該社会の気分、態度および懸念を反映しているようにされ、世相の影響を与えることが可能であるとされた。プロレスリングが示す高レベルの暴力性と男らしさは、平時における攻撃性の代用手段となっているとも解釈されている。
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