プロレスの起源
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いわゆるアマチュアレスリングよりも歴史は古く、現在のプロレスの歴史は20世紀初頭に始まるが、19世紀には既にファンフェアやバラエティ番組のストロングマン(High_striker)やレスリングパフォーマンスの前任者がいた。一方で地方の伝統レスリングから19世紀に発展した現代の競技スポーツとしてのレスリングは、ルール整備された競争力のあるスポーツの2つのスタイル、「フリースタイル・レスリング」と「グレコローマン・レスリング」(それぞれが英国とヨーロッパ大陸の伝統に基づく)の形で出現していった。これらは 1896年の近代オリンピック開始までに「アマチュアレスリング」という用語で出現した。 近代オリンピック以降は、ルールをスポーツとして整えた際に大きく枝分かれをしている。1896年、第1回近代オリンピックアテネ大会で行われたレスリングは当時のプロレスルール(現在のグレコローマンスタイルに準じたもの)で行われていた。 競技レスリングとショーマンシップを組み合わせるレスリングの出現は1830年代のフランス、7月王政期であるとされる。そしてエドワード“ザ・スティール・イーター(“Edward, the steel eater”「鉄を食う男」)”、ガスタヴ・デアビヨン“ザ・ボーン・レッカー(“Gustave d’Avignon, the bone wrecker”「骨折魔」)”、ボネット“ザ・オックス・オブ・ジ・アルプス(“Bonnet, the ox of the low Alps”「アルプス山脈の雄牛」)”などの名前でレスラーを紹介し、観客に500フランで彼らをノックダウンするように要求したという 1848年、フランスの興行師であるジーン・エクスブロヤ(Jean Exbroyat)は、最初の近代レスラーのサーカス団を結成。このときのレスリングで腰下のホールドを実行しないというルールをとりきめ、これが「フラットハンドレスリング」と名付けたスタイルとなる。この新しいスタイルはすぐにヨーロッパの他の地域、オーストリア・ハンガリー帝国、イタリア、デンマーク、ロシアにフレンチ・レスリング、クラシック・レスリング、フレンチ・クラシカル・スタイル・レスリング(French Classical Style Wrestling)の名前で広まる。 19世紀の終わりまでに、このモダンなレスリングスタイルはのちに「グレコローマン」と名づけられ、ヨーロッパで最もファッショナブルなスポーツになって、1898年にはフランス人のポール・ポンズが最初のプロの世界チャンピオンになったとしている。 19世紀後半に米国と英国で普及したプロレスのモダンなスタイルが出現する。このレスリングはキャッチと呼ばれ、グレコローマンとは異なっており、このために非正統的でグレコより緩いスタイルであるとの認識であった。グレコローマンは腰の下をつかむことを厳しく禁止しているが、キャッチレスリングはレッググリップを含め腰の上下のホールドを認めている。その後キャッチレスリングとグレコローマンの両方とも人気が上がり、これは完全に競技性のあるアマチュアとプロのスポーツであった。ここから19世紀後半以降キャッチレスリングのサブセクションが現在の「プロレス」として知られているスポーツエンターテインメントにゆっくりと変化し、その演劇性とエンターテインメント性はレスリングの能力と同等に認められていった キャッチの起源はイギリスのランカシャー地方のランカシャーレスリング(キャッチ・アズ・キャッチ・キャン)にあると言われている。レスリングのグレコローマンスタイルを賞金マッチで行ったものがアメリカで行われていた記録もあり、もう1つのプロレスのルーツとなっている。 19世紀の初め頃にボクシングとともにイギリスで興行が開始されている。有名な「プライズ・ファイター」(現在のボクサー)ジェームス・フィグはベアナックル(素手)、蹴り技、投げ技、絞め技、噛み付き、目つぶし、髪の毛つかみのある当時のボクシングのほか、レスリングも得意であった。 1830年代にはアメリカにレスリング勝者に懸賞金が与えられるという興行が伝えられエイブラハム・リンカーンも行っていた。キャッチ・アズ・キャッチ・キャンとグレコローマンのミックスマッチ(3本勝負で混ぜる)や更に腰から下へのキックを認めるというような変則的なルールが各地、各試合毎に行われていた。 現在のプロレスに直接つながっているのは19世紀後半のアメリカに広まったカーニバル・レスリングとされる。カーニバル・レスリングは"athletic show"あるいは短く"at show"と呼ばれた、いわゆるサーカスの出し物の一つとして行われ、その中では、レスラーは観客の挑戦を受けて試合(いわゆる"all comers")をしたりレスラー同士、あるいはボクサーとの模範試合を披露していた。19世紀末まではレスリングのみのショーは試合数が限られていたため、レスリングを職業として生活するためには、このようなカーニバル・レスリングに参加するか1人で旅芸人として巡業する必要があった。 このためかつて大仁田厚は自身が設立したFMWへの批判に対して、「プロレスの起源はサーカスの見世物」と反論している。大仁田とは対照的な正統派のルー・テーズも、自伝においてカーニバルレスリングと旅芸人がプロレスの起源と述べているほか、ロシアでもレスリングはショーとして、サーカスに組み込まれていたとしている。 1880年代には人気レスラーであり警察官でもあったウィリアム・マルドゥーンが警察を退職、専業という意味で最初のプロレスラーとなった。と同時にマルドゥーンは劇場などの常設施設で行われるレスリング・ショーの発展に努力して後に「アメリカン・レスリングの父」とも呼ばれるようになる。 1890年代にはカーニバルレスリング出身のマーティン・ファーマー・バーンズがイバン・ストラングラー・ルイス、トム・ジェンキンスらとのレスリング・ショーで人気を集めた。その後バーンズはフランク・ゴッチを始めとする多くのプロレスラーを育てレスリングの通信教育も行った。バーンズもまた「アメリカンレスリングの父」と呼ばれる。
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