アポロ_(軽巡洋艦)とは? わかりやすく解説

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ホバート (軽巡洋艦)

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/05 02:25 UTC 版)

艦歴
発注
起工 1933年8月15日
進水 1934年10月9日
就役 1936年1月13日
退役
その後 1962年2月22日に売却
除籍 1962年2月22日[要検証]
性能諸元
排水量 7,105トン
全長 562 ft 3 in
全幅 56 ft 8 in
吃水 15 ft 8 in
機関 パーソンズ式タービン
4缶4軸推進 72,000 hp
最大速 32.5ノット
乗員 570名
兵装 6インチ砲8門
4インチ砲8門
3ポンド砲4門
21インチ魚雷発射管8門
艦載機 スーパーマリン ウォーラス1機
モットー Sic Fortis Hobartia Crevit

ホバート (HMAS Hobart) は、オーストラリア海軍軽巡洋艦[1]パース級軽巡洋艦 (Perth class light cruser) の1隻で[2]イギリス海軍所属のアポロ (HMS Apollo) として建造された[3][注釈 1]

艦歴

第二次世界大戦以前

海軍休日時代にイギリス海軍が建造したリアンダー級軽巡洋艦 (Leander class Light Cruisers) は[5]、本艦を含む数隻がイギリス連邦の諸国に貸与されている[6][注釈 2]。 二等巡洋艦アポロ (HMS Apollo) はデヴォンポート工廠で1933年(昭和8年)8月15日に起工し、1934年(昭和9年)10月9日に進水、1936年(昭和11年)1月13日に就役した[3]北米および西印度艦隊 (America and West Indies Station) の第8巡洋艦戦隊 (8th Cruiser Squadron) に編入され、軽巡オライオン (HMS Orion, 85) などと行動を共にした。

1938年(昭和13年)9月28日にオーストラリア海軍に引き渡されホバート (HMAS Hobart) となる[注釈 3]

第二次世界大戦

第二次世界大戦が始まり1939年(昭和14年)9月3日にオーストラリアとナチス・ドイツが戦争状態になったとき、ホバートはバス海峡の哨戒中であった[7]。ホバートはメルボルン港へ戻り、それからシドニーへ移動した[7]

10月13日(または14日[7])にシドニーから出港し、10月26日にシンガポールに到着[8]。10月28日に出港し、イギリス海軍の軽巡洋艦バーミンガム (HMS Birmingham, C19) とともにスマトラ島西岸沖やスンダ海峡を哨戒し、11月5日にシンガポールに戻った[7] [注釈 4]。これ以降、ホバートはインド洋で主に船団護衛に従事した[7][11]

1940年(昭和15年)6月10日、アデンイタリア王国の参戦を迎えた[12]。 同年8月にはベルベラからの撤退を支援した。同年12月にオーストラリアに戻り、1941年(昭和16年)6月までオーストラリア周辺で活動した。8月に地中海へ移動したが、日本の参戦後により太平洋戦争が始まると、東南アジアに戻った[注釈 5]

太平洋戦争緒戦

太平洋戦争開戦直後のマレー沖海戦主力艦2隻を喪失してトーマス・フィリップス司令長官が戦死したイギリス東洋艦隊は、ジェフリー・レイトン提督の指揮下で態勢を立て直そうとする[14]。しかしマレー半島南下する日本軍の進撃を食い止めることができなかった[15]。1942年(昭和17年)1月になると、東洋艦隊はシンガポールからジャワ島バタヴィアジャカルタ)へ拠点を移し[16]、巡洋艦部隊(ダニーダーバンドラゴンエメラルドエクセター)もバタビアに移動した[17]。2月2日、ホバートもイギリス軍駆逐艦テネドス (HMS Tenedos) と共にシンガポールを出発、バタヴィアにむかった。途中、沈没した商船の遭難者を救助する。シンガポールの陥落が避けられなくなり、連合国オランダ領東インドを防衛する見込みはなくなった[18]。だがオランダ軍は諦めていなかった[19]。2月中旬、日本軍は南方作戦にともなう蘭印作戦を実施してジャワ島に迫りつつあった[20]

2月13日、ジャワ島のバタビアカレル・ドールマン少将が率いるABDA艦隊が集結する[21][注釈 6]。その兵力は、オランダ海軍の軽巡洋艦3隻(デ・ロイテルジャワトロンプ)、英重巡洋艦エクセター (HMS Exeter, 68) 、豪軽巡洋艦ホバート、米駆逐艦6隻(ブルマ―バーカーホイップルアルデンエドワーズエドサル)、蘭駆逐艦4隻(バンケルトファンゲントコルテノール英語版ヴァンネス英語版)であった[23]

2月14日早朝、ABDA艦隊はバンカ島にむけてバタビアを出撃したが、途中で駆逐艦ファンゲントオランダ語版が座礁沈没、乗組員収容のため駆逐艦バンケルト (Hr.Ms. Banckert) が残留した[24]。 翌15日午前9時以降、ガスパル海峡を通過中のABDA艦隊を日本軍偵察機が発見して「戦艦1隻、巡洋艦3隻、駆逐艦5隻の連合軍艦隊がガスパル海峡北上中」と報告した[25][注釈 7]。 この方面で蘭印作戦を実施していた馬来部隊指揮官小沢治三郎海軍中将(第一南遣艦隊司令長官)は「一、基地航空部隊は全力を挙げてこの敵を攻撃せよ/二、輸送船は北方に避退せよ/三、主力部隊は基地航空部隊の攻撃に策応し敵を撃滅する」との方針を示した[27]。そこでボルネオ島クチンマレー半島クアンタンに展開していた日本海軍基地航空部隊と、四航戦の軽空母龍驤艦上機が、ABDA艦隊に空襲を敢行することになった[28][注釈 8]

日本側の九七式艦上攻撃機陸上攻撃機は諸事情により魚雷を搭載せず、爆弾のみを装備して出撃した[31][32]航空戦により、ABDA艦隊の2隻が損害を受ける[23]。ホバートも若干の損傷をうけた[33]。日本側の記録によれば、日本時間13時25分に第三航空部隊(龍驤)第一次攻撃隊(九七艦攻7機)がエクゼター型巡洋艦1隻を爆撃して炎上させ撃沈または大破と報じ、19時00分に龍驤第四次攻撃隊がレアンダー型軽巡洋艦1隻を爆撃して艦尾に数発の至近弾を得たと報告している[31]。 ABDA艦隊は決定的被害を免れたものの[34]、日本軍輸送船団撃滅をあきらめて反転し[22]、ジャワ島にもどった[35][36][注釈 9]。日本側でも、戦況を分析していた永野修身軍令部総長が「基地航空部隊の爆弾はどうして当らないのか」と落胆したという[40]

15日[41]、イギリスの極東における最大拠点シンガポール陥落した[42]。 ABDA艦隊は各地に分散して帰投し、ホバートはバリ島沖海戦に参加していない[43]。日本軍の基地航空隊はバタビアにも空襲をおこない[44][45]、この空襲でホバートは損傷した。このためスラバヤ沖海戦バタビア沖海戦に参加せず、結果として脱出に成功した[注釈 10]

姉妹艦パース (HMAS Perth, D29) が日本軍ジャワ島東部侵攻部隊[注釈 11]迎撃のためドールマン少将(旗艦デ・ロイテル)指揮下のADBA艦隊に参加してスラバヤを出撃したあと[19]コリンズ提督は日本軍ジャワ島西部侵攻部隊[注釈 12]迎撃のため巡洋艦3隻(ホバート、ドラゴン、ダニー)と駆逐艦2隻(スカウト、テネドス)を出撃させた[51]。連合軍艦隊の任務は「24時間のあいだ日本軍輸送船団を捜索し、その後はスンダ海峡を通過してインド洋に向かう」ことであった[51]。日本軍偵察機(重巡熊野水上偵察機)[52]は連合軍艦艇5隻(巡洋艦3、駆逐艦2)を「戦艦3隻、巡洋艦2隻」と報告したので、仰天した日本軍西部侵攻部隊は北方に退却する[51]。この時、第五水雷戦隊(司令官原顕三郎少将、軽巡名取由良、旧式駆逐艦部隊)と第七戦隊(栗田少将の最上型重巡洋艦4隻)の間で今後の方針を巡ってやりとりがあり、最終的に決戦を避けて北上退避している[53]

ホバート部隊は日本艦隊を捜索したが発見できず、スンダ海峡を通過してインド洋に脱出した[51][注釈 13]。スラバヤ沖海戦で生き残った巡洋艦2隻(パース、ヒューストン)はバタビアのタンジョンプリク港に入港したあとホバート部隊同様にジャワ島北岸を西進してスンダ海峡の通過を試みたが、バンタムで揚陸作戦中の西部侵攻部隊(第16軍主力)と遭遇する[55]。日本軍側は陸軍特殊船神州丸(司令官今村均陸軍中将の旗艦)などを誤射で撃沈してしまったが、引き換えに[注釈 14]、連合軍艦艇3隻(パース、ヒューストン、エファーツェン)は全滅した[57]

珊瑚海海戦

1942年(昭和17年)4月22日ANZAC戦隊英語版第44任務部隊英語版 (Task Force 44) に改変され、オーストラリア海軍のジョン・グレゴリー・クレース英語版少将が司令官となる。オーストラリア海軍の巡洋艦3隻(オーストラリア、キャンベラ、ホバート)は全面的にアメリカ海軍の指揮下に入れられた[58]

5月6日フランク・J・フレッチャー少将は[59]、自身の旗艦ヨークタウン (USS Yorktown, CV-5) と護衛艦艇[60]フィッチ少将の旗艦レキシントン (USS Lexington, CV-2) と護衛艦艇、第44任務部隊合わせて、第17任務部隊英語版を編成していた[61]両軍の戦闘序列[62]

7日、フレッチャー提督は第17任務部隊第3群[63](クレース少将:重巡オーストラリア、重巡シカゴ、軽巡洋艦ホバート、駆逐艦パーキンス英語版、駆逐艦ウォーク英語版、駆逐艦ファラガット)を編成した[64]。 そしてクレース隊を日本軍輸送船団撃滅のため先行させたため[65][66]、空母ヨークタウンとレキシントンの護衛艦艇はさらに減ってしまった[67][62]。 空母2隻と分離したクレース隊は、北西方向にむけ前進を開始した[68][69]。もしクレース隊が順当に進撃していたら、日本軍輸送船団を護衛する祥鳳以下のMO攻略部隊主隊と衝突したはずである[注釈 15]。だが午前6時40分にクレース隊は日本軍水上偵察機に触接された[72]

日本時間午前7時25分、ニューブリテン島ラバウルを発進した陸攻(偵察)は「戦艦2隻、重巡2隻、駆逐艦2隻」計6隻の連合軍艦隊を発見した[73]。他にも重巡衣笠偵察機が空母1隻と戦艦1隻をふくむ連合軍機動部隊を発見した[74]。基地航空部隊の零式艦上戦闘機陸上攻撃機が、連合軍艦隊攻撃にむかう[注釈 16]ラバウル航空隊は、ルイジアード諸島ロッセル島英語版西方で、正午ごろよりクレース部隊に対する攻撃を開始する[78][注釈 17]。 一式陸攻の雷撃と九六陸攻の水平爆撃により[80][81]カルフォルニア型戦艦1隻と重巡洋艦オーガスタ (USS Augusta, CA-31) および駆逐艦1隻を撃沈[注釈 18]ウォースパイト型戦艦を大破させたと報告している[77][83]。陸攻部隊の被害は大きかった[注釈 19]

大本営[83]、カルフォルニア型戦艦撃沈とウォースパイト型戦艦撃破を大々的に宣伝した[85][注釈 20]。 さらにポートランド級重巡洋艦1隻を撃沈したことになった[87][注釈 21]。 もちろんクレース隊に米戦艦カリフォルニア (USS California, BB-44) や英戦艦ウォースパイト (HMS Warspite) は含まれていない。日本側の過大戦果報告と裏腹にクレース隊に目立った被害はなかった[81][89][注釈 22]。第17任務部隊の空襲で軽空母祥鳳をうしなった日本軍攻略部隊が反転したので[92]、クレース部隊はしばらく索敵行動をとったあと[68]、南下してオーストラリアにむかった[91]

ガダルカナル島の戦い

日本軍の攻勢がミッドウェー海戦で頓挫したあと、オーストラリア海軍の主力艦3隻(オーストラリアキャンベラ、ホバート)はウォッチタワー作戦に従事した(海軍部隊、戦闘序列[58]。英国海軍豪州艦隊司令長官ビクター・クラッチレー少将は重巡オーストラリア (HMAS Australia, D84) に将旗を掲げていた[93][注釈 23]

7月下旬にフィジー諸島での予行演習を実施したあと[96][97]、連合軍上陸部隊は1942年(昭和17年)8月7日フロリダ諸島ツラギ島ガダルカナル島に上陸作戦を敢行した[98]フロリダ諸島の戦い[99]。これに対しラバウルを発進した日本海軍の一式陸上攻撃機九九式艦上爆撃機[100]、揚陸作業中の連合軍輸送船団に空襲をおこなう[101]。 輸送船団と護衛艦艇は自分達の対空砲火と、フレッチャー提督の空母機動部隊[102][注釈 24]から飛来したF4F ワイルドキャットで応戦した[104]。駆逐艦マグフォード (USS Mugford,DD-389) が小破した[105]。 護衛艦隊司令官のクラッチレー提督は夜間警戒のため、指揮下艦艇をいくつかのグループにわけてルンガ泊地に配置した[106][107]。隷下のノーマン・スコット少将は最新鋭のSGレーダーを装備したアトランタ級軽巡洋艦サンフアン (USS San Juan, CL-54) に将旗を掲げ、東方部隊(軽巡サンフアン、軽巡ホバート、駆逐艦モンセン、駆逐艦ブキャナン)として[108]、フロリダ諸島とガダルカナル島間のシーラーク水道東側を警戒した[109]。日本軍の水上部隊は出現せず、何事もなく夜が明けた[110]

8月8日、連合軍上陸部隊は再びラバウル航空隊の空襲を受けた[111]。連合軍各艦は猛烈な対空砲火を浴びせ、日本軍攻撃機は大損害をうける[112][113][注釈 25]。連日の空戦で連合軍側もある程度の航空機を失い[116]、フレッチャー提督の第61任務部隊は掩護を打ち切って撤退を開始する[117][118]。 日没後から9日にかけて、東方部隊4隻[119](サンフアン、ホバート、モンセン、ブキャナン)は輸送エリア東入口を哨戒中であった[120][121]。クラッチレー提督はターナー提督と協議するため旗艦オーストラリア (HMAS Australia, D84) に乗艦したまま配置を離れ[122]、輸送船団の方にいた[121]

この夜、第八艦隊司令長官三川軍一中将が率いる外南洋部隊(通称“三川艦隊”)がサボ島南を通過して鉄底海峡に突入し[注釈 26]夜戦で連合軍の南方部隊と北方部隊に大打撃を与えた[125][注釈 27]。 東方部隊(サンフアン、ホバート、モンセン、ブキャナン)は自分達の鼻先を三川艦隊が通過していったのに、何の行動も起こさなかった[120]。上級部隊から命令はこなかったし、スコット少将も状況を尋ねなかった[120]。 日中になると、日本海軍航空隊は駆逐艦ジャービスに集中攻撃を加えて撃沈したので[127][128]、連合軍輸送船団は無傷で済んだ[129]。連合軍輸送船団は物資の大半を揚陸しないまま撤退を開始する[130][131]ヴァンデグリフト将軍が指揮するアメリカ海兵隊はガ島とフロリダ諸島に取り残され、弾薬と食糧の不足に苦しめられた[130]。8月13日、連合軍輸送船団はニューカレドニアヌメアに到着した[132]

このあと、第44任務部隊は珊瑚海のパトロール任務に従事した。

1943年以降

エスピリトゥサント島にて応急修理を受けるホバート。魚雷による衝撃で後部甲板が捲れ上がっている。1943年7月23日

1943年(昭和18年)1月下旬、北アフリカ戦線で活躍したオーストラリア陸軍第9師団 (9th Division) をオーストラリア本土に帰還させ、太平洋戦線に配置転換するためのパンフレット作戦英語版が実施され、2月下旬に完了した。本艦を含む第44任務部隊はイギリス東洋艦隊 (Eastern Fleet) や連合国軍各部隊・各艦艇と協力し、輸送船団を護衛した。

3月15日、南西太平洋方面軍 (South West Pacific Area) の隷下に第7艦隊 (United States Seventh Fleet) が編成され、司令長官にアーサー・S・カーペンダー中将が任命された。この再編により第44任務部隊は第74任務部隊 (Task Force 74) と改称し、本艦と重巡オーストラリア (HMAS Australia, D84) が基幹戦力となった。

6月下旬、連合軍はキリウィナ島ウッドラーク島に対する上陸作戦を行うことになり、クロニクル作戦 (Operation Chronicle) と呼称した。第74任務部隊も同作戦に投入された。この頃、連合軍はカートホイール作戦によりニュージョージア諸島レンドバ島に上陸を開始、ニュージョージア島の戦いが始まった[133]パプアニューギニアでも攻勢に転じ、サラマウア南方のナッソー湾上陸作戦を敢行する(東部ニューギニアの戦い[133]。7月中旬以降、日本軍潜水艦5隻(伊11伊17伊19伊25伊26)はソロモン諸島や珊瑚海方面の偵察を実施した[134]

7月20日夕刻[注釈 28]エスピリトゥサント島の280度200浬付近で、伊11がホバートを捕捉した[136]。伊11は目標をサンフランシスコ型重巡洋艦と判断し、魚雷3本命中を記録した[注釈 29]。第74任務部隊として行動中のホバートは、左舷後部に命中した魚雷によって大きな損害を受けた。エスピリトゥサント島で応急修理を実施したあと、オーストラリア本土に後退する。シドニー湾コッカトゥー島にある造船所で本格的修理をおこなう。その修理には1945年(昭和20年)初めまで要した[3]。修理完了後、東南アジアなどで上陸作戦支援などに従事した[3]

第二次世界大戦後

1945年(昭和20年)8月15日、日本はポツダム宣言を受諾して玉音放送をおこなう。日本の降伏にともない、ホバートは東京湾に進出した[3]。9月2日、降伏文書調印式に参加した[注釈 30]

1962年2月22日、解体のためMitsui & Co (Aust) Pty Ltdに売却[138]。同年3月3日に曳航されてシドニーを離れ、4月2日に大阪府堺市のMiyachi Shipyardに到着した[138]

出典

注釈

  1. ^ 二等巡洋艦 “アンフイオン Amphion[4] 全要目{排水量7,040噸 速力32.5節 備砲 15.5糎砲8門 10糎高角砲4門 魚雷發射管(53糎)8門 起工1933年6月 竣工1936年6月 建造所ポーツマス海軍工廠} これが新時代の英國7,000噸級輕巡の勇姿である。前檣は極端にかたまつて殆ど箱型である。この型がどうやら英國新輕巡の通有タイプになりさうであるが、國によつて夫々違つてゐるのも興深い。尤も艦型よりも實力こそ問題であるが、近代的射撃装置の完備した輕巡15糎砲の齋射は怖るべきもので、仰角また自由自在である。長さ161.5米、幅17.3米、平均吃水4.62米、軸馬力72,000馬力。“アポロ Apollo “シドニー Sidney(これは濠洲海軍へ渡された)の姉妹艦がある。
  2. ^ ネームシップリアンダー (HMS Leander) と2番艦アキリーズ (HMS Achilles) はニュージーランド海軍に、改良型のパース級3隻(アンフィオン〈改名後パース〉、フェートン〈改名後シドニー〉、アポロ〈改名後ホバート〉)はオーストラリア海軍に引き渡された[1]
  3. ^ 本艦の代艦として、オーストラリア海軍の水上機母艦アルバトロス (HMAS Albatross) がイギリス軍に引き渡された。
  4. ^ このバーミンガムはタウン級軽巡洋艦サウサンプトン級軽巡洋艦)である[9]アメリカ海軍クリーブランド級軽巡洋艦 (Cleveland-class light cruisers) バーミングハム (USS Birmingham, CL-62) とは[10]、スペルが同じだけの別艦。
  5. ^ 姉妹艦の軽巡シドニー (HMAS Sydney) は太平洋戦争開戦直前の1941年(昭和16年)11月19日インド洋ドイツ海軍の仮装巡洋艦コルモラン (Hilfskreuzer Kormoran) と交戦し[13]相撃ちとなって沈没した[3]
  6. ^ ABDA部隊の最高指揮官はイギリス軍のウェーヴェル陸軍大将、海軍部隊最高司令官はアメリカ海軍のハート提督であった[22]
  7. ^ その後、戦艦は巡洋艦の誤認と判明した[26]
  8. ^ 第四航空戦隊司令官角田覚治少将を指揮官とする第三航空部隊(龍驤、汐風敷波)は馬來部隊と共に行動していた[29]。馬來部隊の重巡鳥海(小沢長官旗艦)と第七戦隊(司令官栗田健男少将)の重巡4隻(熊野鈴谷三隈最上)は、空襲が終わってから水上戦を挑むことにした[30]
  9. ^ 2月17日[37]、バンカ島守備隊を収容して撤退中の蘭駆逐艦ヴァンネス (Hr.Ms. Van Nes) と輸送船1隻は[23]、空母龍驤艦上機と、基地航空隊の陸攻に襲われて2隻とも沈没した[38][39]
  10. ^ 本艦の姉妹艦パース (HMAS Perth, D29) は[3]、スラバヤ沖海戦に参加したあと[19]、バタビア沖海戦で沈没した[46]。オランダ海軍ではトロンプ級軽巡洋艦トロンプ (Hr.Ms. Tromp) [47]などが生き残ったが、デ・ロイテル (Hr. Ms. De Ruyter) など大部分の主力艦は撃沈された[48][49]
  11. ^ 上陸部隊は第48師団など。護衛部隊は第五戦隊司令官高木武雄少将、第二水雷戦隊第四水雷戦隊など。
  12. ^ 上陸部隊は第16軍司令部と第2師団など。護衛部隊は第七戦隊司令官栗田健男少将[50]第五水雷戦隊馬来部隊からの増援艦艇など。
  13. ^ 日本側偵察機は、ホバート部隊がバタビアに入港したと報告したので、栗田提督は三隈艦長が指揮する3隻(重巡三隈最上、駆逐艦敷波)を五水戦に派遣し、北方に退避した[54]
  14. ^ 陸軍特殊船神州丸は、本作戦で秘匿船名「龍城丸」と呼ばれていた[56]
  15. ^ MO攻略部隊主隊[70]:第六戦隊(青葉加古衣笠古鷹)、空母祥鳳、駆逐艦[71]
  16. ^ 出撃時は台南海軍航空隊の零戦11機(ラエより発進)、元山海軍航空隊九六式陸上攻撃機 20機(爆弾装備)と[75]第四航空隊一式陸上攻撃機 12機(魚雷装備)だった[76]。九六陸攻1機が故障で帰投した[77]
  17. ^ 附表第七戰闘概報 5AB機密第三一七番電 七日二三三〇 5AB戰闘概報第二十八號(五月七日)[79] 一.敵機動部隊索敵ノタメ四空陸攻三機〇四三〇RR發進 濱空大艇三機早朝RXB發進〇七〇〇敵機動部隊「ロツセル」島南方ニアリトノ敵情ヲ得 四空陸攻一二機(雷装)南空零戰一一機誘導四空陸攻一機〇七五〇RR發進 元空陸攻二〇機(各機二五番通二發)〇九〇〇發進 両者ハ一二三〇ヨリ一二四四迄ノ間協同「デボイネ」ノ二〇〇度一一五浬ノ敵主力ヲ雷撃セリ/成果並ニ偵察状況概報ノ通リ/被害 自爆四空陸攻二機 未皈還四空陸攻二機「デボイネ」二不時着 搭乗員無事ナルモ四空陸攻一機皈着時大破セルモノ四空陸攻二機(搭乗員無事) 被彈機四空陸攻三機 元空陸攻四機 
  18. ^ 六 功績[82] MO攻略味方輸送船団攻撃ヲ企図セル敵機動部隊ヲ「サンゴ」海上「パニート」南方八七浬ニ捕捉熾烈ナル防禦砲火内ニ突入 敵重巡「オーガスタ」ヲ爆撃之ヲ撃沈セシメ第四航空隊雷撃隊ト相俟ツテ米戰艦「カリフォルニヤ」轟沈 米重巡「オーガスタ」撃沈 英戰艦「ウォースパイト」大破 駆逐艦一撃沈ノ「ハワイ」海戰以来ノ大戰果ヲ擧ゲ敵ノ企図ヲ挫折セシメタル功績顕著ナリ
  19. ^ 『戦史叢書49、南東方面海軍作戦(1)』288頁では「一式陸攻4機が自爆、1機が不時着大破、2機が着陸時に大破した。」と記述する[77]。『一式陸攻戦史(2019)』209頁では、四空の一式陸攻8機自爆、2機不時着、2機がラバウル帰投」と記述する[84]
  20. ^ 四 珊瑚海の勝利[86](一)五月七日十一時の晝食前である。「わが小型航空母艦沈没す。」と擴聲器が艦内各部の報じた。くちおちさが足の先から頭のてっぺんまで突き抜けて走る。「今に見ろ、敵艦隊を一隻も餘さず、珊瑚海の海神のごちそうに供へてやる。」と、歯を食ひしばった。/沈没したこの小さな母艦は、敵五十機の雷爆撃を相手に、敢然と戰ひぬき、不幸にも今この厄にあったのである。/すると、今度はすばらしい勝報がやって來た。「戰艦一隻撃沈。」やった、やった、わが勇猛果敢な海の荒鷲が、米のカルフォルニヤ型を撃沈したのだ。更に英の戰艦ウォースパイト型にも、大損害を與へたことがわかる。どっとあがる歓呼、うれし涙が頬を傅って流れる。(以下略)
  21. ^ 珊瑚海海戰[88] 帝國海軍部隊は五月六日ニューギニア島南東珊瑚海において米英聯合艦隊を發見、七日これに攻撃を加へ米戰艦カリフォルニア型(三萬二千六百噸、十四吋砲十二門)一隻を轟沈、米甲巡ポートランド型(九千トン、八吋砲九門)一隻撃沈、英戰艦ウオスパイト型(三萬六百トン、十五吋砲八門)一隻に大損害を與へ、さらに翌八日、米航空母艦サラトガ型(三萬三千トン、搭載機八十乃至九十機、戰時は百二十機は可能)一隻およびヨークタウン型(一萬千九百トン、搭載機八十、戰時百機まで可能なる最新鋭空母)一隻を撃沈したほか米戰艦ノース・カロライナ型(三萬五千トン、十六吋砲九門、一九四一年春竣工の最新鋭艦)を中破し、さらに米甲巡ルイスビル型(九千五十トン、八インチ砲九門)一隻に對し雷撃機の體当りをもってこれに大損害を與へ、二萬トン級給油艦一隻を大破、驅逐艦一隻を撃沈した。七日以來の本海戰において敵機撃墜數は九十八、わが未歸還機二十四、なほわが小型航空母艦一隻(給油艦を改造せるもの)沈没した。(以下略)
  22. ^ 仕上げに、クレース部隊はアメリカ陸軍航空部隊B-17型重爆から誤爆され[90]、駆逐艦ファラガット (USS Farragut, DD-348) に至近弾となった[91]
  23. ^ クラッチレーは歴戦の軍人で、1930年代にニュージーランドの軽巡ダイアミード (HMS Diomede,D92) 艦長を務めた[94]第二次世界大戦開戦時の戦艦ウォースパイト (HMS Warspite) 艦長で、第2次ナルヴィク海戦などで戦果をあげた[95]。1942年(昭和17年)6月1日付で少将に昇進した[95]
  24. ^ 第61任務部隊:空母サラトガ (USS Saratoga, CV-3) 、エンタープライズ (USS Enterprise, CV-6) 、ワスプ (Wasp, CV-7) 、新鋭戦艦ノースカロライナ (USS North Carolina, BB-55) 、巡洋艦6隻駆逐艦16隻[103]
  25. ^ 連合軍側の被害は、駆逐艦ジャービス (USS Jarvis, DD-393) 大破、輸送船ジョージ・F・エリオット (USS George F.Elliott,AP-13) が被弾して放棄という程度だった[114][115]
  26. ^ 三川艦隊編成[123]:重巡鳥海、重巡青葉、重巡衣笠、重巡古鷹、重巡加古、軽巡天龍、軽巡夕張、駆逐艦夕凪[124]
  27. ^ 連合軍側の夜戦被害一覧[126]:沈没(重巡クインシーヴィンセンスアストリアキャンベラ)、損傷(重巡シカゴ、駆逐艦ラルフタルボット、駆逐艦パターソン)。
  28. ^ (昭和18年7月20日、経過概要)[135]〔 18-7|20|1641|イ11ハ「サンクリストバル島」S 250′ニテ「サンフランシスコ型」C×1及d×3ヲ発見攻撃|南東 3SS/6F|大巡ニ対シ魚雷×3命中撃沈確実 〕〔 20| |イ19「フィジー」(航空機)偵察|太平洋 1SS/6F|「スバ」附近ニB×5(又ハA)C×3 d×3 T×3 艦型不詳×3「ナンデ」ニA×1 T×6 〕
  29. ^ 1943年(昭和18年)7月25日記事[137]〔 ○伊十一潜(二五-一二〇二)二十五日0010「ヌメア」航空偵察 ツンベア(欄外注記ダンベアフランス語版の誤記か)巡洋艦一、駆逐艦三、輸送船四。ヌメア泊地 巡洋艦二、駆逐艦三、輸送船三。ヌメア港 巡洋艦四、駆逐艦一、輸送船一。二十日1641、巡洋艦(サンフランシスコ型)一、駆逐艦三ヲ襲撃、三本命中。二時間駆逐艦三ノ外、推進音ヲ聴知セズ。巡洋艦撃沈シタルモノト判断ス。〕
  30. ^ オーストラリア海軍艦艇では、ホバートの他に重巡シュロップシャー (HMAS Shropshire) や駆逐艦数隻も参列した。

脚注

  1. ^ a b イカロス、世界の巡洋艦 2018, pp. 40a-42コラム(1)英連邦諸国の巡洋艦/■オーストラリア海軍
  2. ^ 世界の艦艇完全カタログ 2019, p. 107パース級軽巡洋艦
  3. ^ a b c d e f g イカロス、世界の巡洋艦 2018, p. 41.
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  6. ^ イカロス、世界の巡洋艦 2018, pp. 18–19(イギリス海軍)リアンダー級軽巡洋艦/イギリスが第一次大戦後に初めて建造した軽巡洋艦
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  9. ^ イカロス、世界の巡洋艦 2018, p. 25サウサンプトン級第1群(バーミンガム)
  10. ^ イカロス、世界の巡洋艦 2018, p. 51クリーブランド級(バーミンガム)
  11. ^ Royal Australian Navy, 1939–1942, pp.133-134
  12. ^ Royal Australian Navy, 1939–1942, p.134
  13. ^ 連合軍艦艇撃沈す 2013, p. 114.
  14. ^ グレンフェル 2008, p. 116.
  15. ^ グレンフェル 2008, pp. 117–118.
  16. ^ グレンフェル 2008, p. 129.
  17. ^ 連合軍艦艇撃沈す 2013, p. 94.
  18. ^ トール、真珠湾~ミッドウェイ(下) 2013, p. 35.
  19. ^ a b c グレンフェル 2008, p. 131.
  20. ^ 戦史叢書26 1969, pp. 317a-318連合軍の反撃ならず
  21. ^ 戦史叢書26 1969, p. 317b.
  22. ^ a b グレンフェル 2008, p. 130.
  23. ^ a b c 戦史叢書26 1969, p. 318.
  24. ^ 日本空母戦史 1977, p. 151.
  25. ^ 戦史叢書80 1975, pp. 187–188南部スマトラの攻略とジャワ西部航空撃滅戦開始
  26. ^ #S1612七戦隊日誌(5) p.23〔 午後五時第四航空戰隊司令官ヨリ「触接機ノ確認セル報告ニ依リ敵兵力ニ関スル情報中左ノ通改ム 巡洋艦七(「エメラルド」型三、「ダナエ」型二、「ホーキンス」型二)駆逐艦五、戰艦ナシ一六〇〇」ノ電アリ 〕
  27. ^ 勇将小沢治三郎生涯 1997, pp. 110–112遁走したガスパル海峡の英蘭連合艦隊
  28. ^ 戦史叢書26 1969, pp. 303–306航空部隊の戦果あがらず
  29. ^ 戦史叢書26 1969, p. 306.
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  36. ^ 軍艦鳥海航海記 2018, pp. 87–88(昭和17年)2月15日/英艦隊に遭遇す 大巡2、軽巡3、駆逐艦6 空軍力にて攻撃せしも命中せず、敵マラッカ方面に走る
  37. ^ 日本空母戦史 1977, p. 155オランダ駆逐艦を撃沈(二月十七日)
  38. ^ 戦史叢書26 1969, p. 312十六日以後の航空部隊の作戦
  39. ^ 軍艦鳥海航海記 2018, p. (昭和17年)2月17日/駆逐艦1、商船1撃沈 龍驤攻撃機.
  40. ^ 勇将小沢治三郎生涯 1997, p. 111.
  41. ^ グレンフェル 2008, p. 121.
  42. ^ #略歴(乙)S1702経過概要 p.3(昭和17年2月)〔 十五日|菲島西部海上兵力ノ大部及31fgノfb隊「バタアン」方面ノ作戰ニ強力/「バンカ」島、「バレンパン」上陸陸軍部隊先遣部隊ノT護衛ノ海軍部隊「ムントク」入泊、陸軍ヲ上陸セシム/鳥海ノfs「バンカ」島北方ニテ敵C×3 d×5發見 航空部隊之ヲ攻撃ス/「シンガポール」英軍降伏 〕
  43. ^ 戦史叢書26 1969, p. 341.
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参考文献

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  • (監修)毒島刀也、(著者)門田充弘、神奈川憲、小高正稔、後藤仁、谷井成章、山崎龍『COSMIC BOOK 世界の艦艇完全カタログ 第一次世界大戦から現代までの全1249種』株式会社コズミック出版〈ミリタリーシリーズ〉、2019年7月。 ISBN 978-4-7747-8657-5 
  • 佐藤暢彦「第八章 MO作戦と東京初空襲」『一式陸攻戦史 海軍陸上攻撃機の誕生から終焉まで』光人社〈光人社NF文庫〉、2019年1月(原著2015年)。 ISBN 978-4-7698-3103-7 
  • 高松宮宣仁親王嶋中鵬二発行者『高松宮日記 第六巻 昭和十八年 二月~九月』中央公論社、1997年3月。 ISBN 4-12-403396-6 
  • 寺崎隆治『最後の連合艦隊司令長官 勇将小沢治三郎の生涯』光人社〈光人社NF文庫〉、1997年12月(原著1972年)。 ISBN 4-7698-2180-8 
  • イアン・トール『太平洋の試練(下) 真珠湾からミッドウェイまで』村上和久(訳)、文藝春秋、2013年6月。 ISBN 978-4-16-376430-6 
  • R・F・ニューカム『サボ島沖海戦 米軍史上最大の敗北』田中至(訳)、光人社〈光人社NF文庫〉、1998年4月(原著1963年)。 ISBN 4-7698-2192-1 
  • 平間源之助著 著、平間洋一 編『軍艦「鳥海」航海記 平間兵曹長の日記 昭和16~17年』イカロス出版、2018年12月。 ISBN 978-4-8022-0634-1 
  • パット・フランク、ヨーゼフ・D・ハリントン『空母ヨークタウン』谷浦英男(訳)、朝日ソノラマ〈航空戦史シリーズ〉、1984年10月。 ISBN 4-257-17048-4 
  • A・A・へーリング、山本親雄 日本語版監修『the LEXINGTON goes down 珊瑚海海戦 空母レキシントン撃沈!』宇田道夫 訳者、株式会社サンケイ出版〈第二世界大戦ブックス 51〉、1973年8月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 蘭印・ベンガル湾方面 海軍進攻作戦』 第26巻、朝雲新聞社、1969年5月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> ガ島奪還作戦開始まで』 第49巻、朝雲新聞社、1971年9月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊<2> ―昭和17年6月まで―』 第80巻、朝雲新聞社、1975年2月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 潜水艦史』 第98巻、朝雲新聞社、1979年6月。 
  • 本吉隆(著)、田村紀雄、吉原幹也(図版)「イギリスの巡洋艦」『第二次世界大戦 世界の巡洋艦 完全ガイド』イカロス出版株式会社、2018年12月。 ISBN 978-4-8022-0627-3 
  • 森史朗『暁の珊瑚海』株式会社文藝春秋〈文春文庫〉、2009年11月(原著2005年)。 ISBN 978-4-16-777315-1 
  • G. HerMon Gill, Australia in the War of 1939–1945. Series 2 – Navy Volume I – Royal Australian Navy, 1939–1942, 1957

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関連項目


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