下村宏 しもむら ひろし
和歌山生まれ、官僚、ジャーナリスト。東京帝国大学卒業後、逓信省に入り、為替貯金局長等を務める。大正4年(1915)明石元二郎台湾総督に招かれ、台湾総督府民政長官(後に総務長官)となり植民地行政に携わる。8年(1919)法学博士。10年(1921)に大阪朝日新聞社入社、昭和5年(1930)副社長となる。11年(1926)に退職し、12年(1927)貴族院議員となる。18年(1943)日本放送協会会長。20年(1945)4月鈴木貫太郎内閣に国務大臣兼情報局総裁として入閣した。同年戦犯容疑者として拘留。21年(1946)から26年(1951)にかけて公職追放。著作に『新聞に入りて』(1915)や『終戦秘史』(1950)があり、エッセイや歌集も多い。
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下村宏
下村ひろし
下村ひろしの俳句 |
浦上は愛渇くごと地の旱 |
「しもむら ひろし」の例文・使い方・用例・文例
- やくざがひろしに試練を課している。
- 母はひろしの夜具をぐいと引き剥がした。
- ひろしは困り果てているのよ。レポートを書くのに必要な一冊しかない本をなくしてしまったの。
- 五木ひろしは糸目の男。
- ひろしは材木をひいて板にしています。
- 中(なか)田(だ)宏(ひろし)横浜市長は計画に賛成し,「現在の銀行が社会的責任を果たしていないのは,誰(だれ)の目にも明らかだ。新銀行が成功するといい。」と語った。
- 刑事の鷹(たか)山(やま)敏(とし)樹(き)(舘(たち)ひろし)と大(おお)下(した)勇(ゆう)次(じ)(柴(しば)田(た)恭(きょう)兵(へい))は7年前,行方不明になった。
- 一方,TBSの井上弘(ひろし)社長は「この2つの事業の統合は非常に難しい。」と語った。
- トヨタ自動車の奥田碩(ひろし)会長(73)が5月24日に日本経済団体連合会(日(にっ)本(ぽん)経(けい)団(だん)連(れん))の会長職を退任した。
- スクールマスターでヴィッセル神戸の元監督でもある加藤寛(ひろし)さんは,「サッカーのグラウンドには職場のような上下関係はない。みんなが新たに平等な人間関係を築くことができる。それがサッカーのいいところ。」と語る。
- 招待客の中には島田紳(しん)助(すけ)さんや舘(たち)ひろしさんがいた。
- 吹雪(ふぶき)の山中,西崎は新聞記者の落(おち)合(あい)信(しん)一(いち)郎(ろう)(玉木宏(ひろし))とともに赤い光の墜落地点へ向かう。
- 法(ほ)華(け)津(つ)寛(ひろし)選手(66)はそのうちの1人だ。
- このイベントは,プロ棋(き)士(し)の本(ほん)間(ま)博(ひろし)六段を含む「日本文化交流使」によって計画された。
- しかし,金はすぐに六(ろく)郎(ろう)太(た)(阿(あ)部(べ)寛(ひろし))という名の野(の)武(ぶ)士(し)と彼の弟に奪われてしまう。
- この映画は人気お笑いコンビ麒(き)麟(りん)の田村裕(ひろし)さんによって書かれた自叙伝に基づいている。
- セントレアの川上博(ひろし)社長は披露式典で「中部地方の先進技術を全世界に見せたい。」と話した。
- 「ひろしま国」は,1945年に原子爆弾による攻撃を受けた都市,広島の中・高校生が発行する新聞だ。
- 「ひろしま国」は5月に50回目の発行を祝った。
- 「ひろしま国」の記者の1人,今(こん)野(の)麗(れい)花(か)さん(15)は展示会の開会式で「締め切りに間に合わせるのは大変だが,新聞の発行が終わると最高の気分になる。」と話した。
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