浦上は愛渇くごと地の旱
作 者 |
|
季 語 |
旱 |
季 節 |
夏 |
出 典 |
|
前 書 |
|
評 言 |
『石階聖母』は、馬酔木の俳人、下村ひろしの第一句集である。昭和34年8月15日に発行された。題名は大浦天主堂の日本聖母像からとったものである。ひろしは信者ではないが、この像は詩魂の一つの拠り所であったと述べている。 句集は、昭和20年以前、昭和21年、22年…というように作句年別に昭和33年まで収載されている。昭和28年の句の中には、幼友達の山本健吉の呼びかけに応じて編んだ「原爆長崎35句」が含まれている。 原爆長崎35句に、「昭和20年8月、被爆當時」の前書きのある「汗涸れて阿鼻の焦土にゐしか吾」や「燃ゆべきは燃え果てにけり地に秋風」の句がある。 被爆直後の浦上の光景は、神も仏も無いように思えるほど凄惨な状況であった。まさに全て燃え果てて、汗涸れ、水涸れ、土涸れ、そして愛涸れた地獄絵図であった。その光景はいつまでも脳裏に焼き付いていたであろう。その後もひろしは長崎の地に句材を求め、原爆の悲惨さを伝えるべく原爆俳句を詠んだ。掲句は、昭和31年の作である。 浦上は、かつて隠れキリシタンの地であり、「浦上4番崩れ」といわれる江戸末期から明治初期にかけて大規模な弾圧事件があった場所。爆心地の近くには浦上天主堂があり、被爆当時もキリスト教信者が数多く住んでいた。そこへ投下された原爆。信者を守るべきキリストの愛が渇いてしまったと訝る人々の声もあったようだ。これに対し「この子を残して」の一節で永井隆は、身のまわりに起こるすべては神の愛の摂理のあらわれとし、「私はいかなる目にあおうとも、神の御名を賛美せずにはおられない。」と、神の愛は決して渇いてはいないという強いメッセージを残している。ひろしは同じ医師として永井隆の影響を受けたのではないか。「愛渇くごと」は、「神の愛が渇いたかのようにみえる」と読めないだろうか。そして、実は神の愛は渇いていないのだという逆説的な意味を持つ句なのではないだろうか。 |
評 者 |
|
備 考 |
- 浦上は愛渇くごと地の旱のページへのリンク