『山羊の歌』出版と夭折
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1934年、10月に孝子が郷里で長男・文也(ふみや)を出産。11月『山羊の歌』が野々上慶一の文圃堂から出版されることが決まる。装丁は高村光太郎、四六倍判、貼函入り、背表紙は題、著者名が金箔押しという美装豪華本である。12月10日、3円50銭で市販された。この後帰省、文也と対面した。翌年3月まで郷里に留まり、ランボーを翻訳するが、長門峡に遊んだ際吐血している。 1935年、3月末単身上京。前年出版された『山羊の歌』は好評であり、詩壇とも交流、原稿依頼も来るようになった。また1月から小林秀雄が『文學界』の編集責任者となり、中也は4月以後毎号新作の詩を発表した。しかし詩だけで家族3人が生活していけるだけの収入は得られず、フクは月100円以上の仕送りをしていた。中也は文也を可愛がっていたが、一緒になって遊ぶというより、文也が遊んでいるのを見守るという接し方だった。 1936年、親戚で日本放送協会の初代理事・中原岩三郎の斡旋で、協会文芸部長との面接に出かける。定職についてほしいというのがフクの希望だったが中也にその気はなく、入社することはなかった(面接で履歴書に「詩生活」とのみ記していることを問われ「それ以外の履歴が私にとって意味があるのですか?」と不思議そうに返したという。当然不採用)。6月25日、山本文庫より『ランボオ詩抄』刊行。生涯初めて印税を受け取る。11月、2歳の文也の容態が急変、入院させる。中也は3日間一睡もせず看病したが、文也は小児結核で死去。葬儀で中也は文也の遺体を抱いて離さず、フクがなんとかあきらめさせて棺に入れた。四十九日の間は毎日僧侶を呼んで読経してもらい、文也の位牌の前を離れなかった。12月に次男・愛雅(よしまさ)が生まれたが悲しみは癒えなかった。幻聴や幼児退行したような言動が出始めたため、孝子がフクに連絡。フクと思郎が上京した。 1937年1月9日、フクは中也を千葉市千葉寺町の道修山(山ではなく丘)にある中村古峡療養所に入院させた(療養所は「中村古峡記念病院」として現存)。ここで森田療法や作業療法を受け、2月15日帰宅。騙されて入院させられたと孝子に言って暴れたため、またフクが呼ばれた。文也を思い出させる東京を離れ鎌倉町扇ヶ谷の寿福寺境内にあった借家へと転居する。5月、『文學界』に「愛するものが死んだ時には、自殺しなけあなりません」ではじまる『春日狂想』を発表。7月、小林秀雄や三好達治ら友人たちの間で第二詩集出版の話が持ち上がる。しかし中也は心身を休めるため山口への帰郷を考えていた。 9月、左手中指の痛みを訴え痛風と診断されている。9月15日、野田書房より訳詩集『ランボオ詩集』が刊行され、売れ行きは上々だった。23日、『在りし日の歌』の原稿清書を終え、翌日小林秀雄に渡している。夏ごろから良くなかった体調がさらに悪化、10月4日に横浜の安原喜弘を訪ねた時は、頭痛や電線が2つに見える視力障害を訴えた。歩行困難もありステッキをついて歩いていた。5日に鎌倉駅前の広場で倒れ、翌日鎌倉養生院(現・清川病院)に入院。脳腫瘍が疑われ、その後急性脳膜炎と診断された(今日では、結核性の脳膜炎とされている)。15日、フクと思郎が駆けつけたときは既に意識は混濁していた。明治大学で教えていた小林は1週間休講にして病室に詰めた。河上徹太郎は毎日東京から病院に通った。22日午前0時10分、鎌倉養生院で永眠。苦しむことなく安らかな死だった。通夜は22、23日と2日にわたって自宅で行われ、24日に寿福寺本堂での告別式を経て、逗子町小坪の誠行社で荼毘に付された。葬儀からほぼ1ヶ月後、遺骨は『一つのメルヘン』で歌われた吉敷川近くの経塚墓地に葬られた。 中也の死から約3ヶ月後の1938年1月、次男愛雅が病死。同年4月には『在りし日の歌』が創元社から刊行された。
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