『夜警』製作と人生の暗転
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「レンブラント・ファン・レイン」の記事における「『夜警』製作と人生の暗転」の解説
レンブラントは、1640年の末に火縄銃手組合が発注した複数の集団肖像画のうち、市の名士フランス・パニング・コック率いる部隊の絵を受けた。彼は独自の主題性と動きのある構図を用いて、1642年初頭に『夜警』を完成させた。注文された絵は組合会館(ニュウヘ・スタッドハイス)に掲げられたが、弟子のホーホストラーテンは『夜警』を評し「展示された他の絵が、まるでトランプの図柄のように見えてしまう」と、その傑出性に眼を見張った。 しかしこの頃、彼は多くの不幸に見舞われていた。1635年12月に生まれた最初の子ロンベルトゥスは2ヶ月で死去。1638年7月生まれの長女コルネリア(母親と同名)、1640年7月に生まれた姉と同じ名をつけた次女コルネリアはいずれも1箇月ほどの短命で亡くなる。この年9月には母も亡くなった。彼の子供のうち、成人を迎えられた者は1641年に授かった息子ティトゥス(英語版)だけであった。 『夜警』の製作中、妻のサスキアが体調を崩し寝込んでしまう。レンブラントは病床の彼女を描いた素描を残している。彼女は一向に回復を見せず、1642年には遺書を用意した。それによると、4万ギルダーの遺産はレンブラントと息子ティトゥスが半分ずつ相続するが、息子が成人するまでは彼を唯一の後見人として自由に使うことを認めた。ただし、もし彼が再婚した場合、この条項は無効になった。6月14日、サスキアは29歳で亡くなった。結核が原因だったと推測される。レンブラントはアウデ教会に購入した墓地に彼女を埋葬した。 この頃からレンブラントの人生は暗転する。サスキアの看病や 幼いティトゥスを世話する親族の女性はおらず、仕事を抱える 彼は乳母として北部出身で農家の未亡人ヘールトヘ(ヘールチェ)・ディルクス(en)を雇った。やがてレンブラントは彼女と愛人関係となる。 彼はまた旺盛な制作活動に戻ったが批判も聞かれるようになった。特に肖像画では、発注主の注文とレンブラントの目指す芸術性に乖離があり、自分がはっきりと立派に見えるようとの要望に応えないレンブラントよりも、これらを満足させる画家の方が好まれた。また、完璧主義の彼は顧客を待たせることで有名だった。画家兼批判家のハウブラーケンは、レンブラントは顔や構図一つに10以上の下書きをすることもあったと述べ、イタリアのフィリッポ・バルディヌッチ(英語版)は、筆を入れ始めてからも何度も書き直すため、顧客は何箇月も拘束されたと語った。ハウブラーケンも次のようなエピソードを述べている。それはある家族の肖像画を製作中にレンブラントが飼っていた猿が死んだ時に起こった。彼はその死体を完成目前の絵に書き込んで出した。これに依頼主の家族は怒り、結局仕事は破棄されたという。このようなことが重なり、レンブラントへの肖像画の依頼は段々と減っていった。彼は聖書や福音書を主題とした絵も描き、『キリストと姦淫の女』<ギャラリー>や『割礼』は完成した絵から選んでオラニエ公が購入している。これはオランダ絵画の新しい販売方法でもあった。 しかし、彼の浪費癖は治まらなかった。絵に必要と思えば骨董から古着まで買い漁り、また、様々な絵画や版画・デッサンもオークションなどで高値を提示して落札した。バルディヌッチによると、レンブラントは美術そのものの価値を高めるためにこのような行動を取ったというが、収入を上回る支出は思慮に欠いたもので、当時のプロテスタント的価値観が強いオランダでは嫌われる「放蕩」であった。 さらに私生活も泥沼を迎える。1649年頃(1647年? )、彼は若い家政婦ヘンドリッキエ・ストッフェルドホテル・ヤーヘル(英語版)を新たに雇い、彼女を愛人として囲い始めた。それは同時にヘールトヘの立場を悪くし、彼女をして憎しみに駆り立たしめた。1649年にヘールトヘは、贈られた宝石を根拠に婚約が成立していたと主張し、その不履行でレンブラントを告訴した。裁判でレンブラントはヘールトヘに毎年200ギルダーの手当てを渡す命令が下された。この頃は創作活動も滞り気味となり、告訴された年には一点の作品も残されていない。後にレンブラントは、ティトゥスに贈与した宝石をヘールトヘが勝手に持ち出して売りさばいていたと訴え、これが認められて彼女はハウダの更生施設(または精神病院)での 12年の拘禁刑に断じられ、彼は腐れ縁から手を切ることができた。ヘールトヘは5年で出所したが、健康を壊したのか翌年には死亡した。レンブラントとヘンドリッキエの間には、1652年に生まれた子はすぐに亡くなったが、1654年に娘コルネリアが誕生した。 強欲さをむき出しにし、また絵のモデルもほとんど務めなかったヘールトヘと違い、ヘンドリッキエはレンブラントを支え、彼女を描いた絵画も残っている。しかし、サスキアの遺言に縛られ二人は婚姻していなかった。裁判所は不義の嫌疑を理由に出頭を命じたがレンブラントは拒否、ヘンドリッキエは二度聴聞を受け、別れるように言われたが従わなかった。
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