『インディアナポリス』雷撃・撃沈とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 『インディアナポリス』雷撃・撃沈の意味・解説 

『インディアナポリス』雷撃・撃沈

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 09:19 UTC 版)

橋本以行」の記事における「『インディアナポリス』雷撃・撃沈」の解説

橋本指揮する伊号第五十八潜水艦』(以下、『伊58潜』とする)は神潮特別攻撃隊多聞隊』を乗せ1945年昭和20年7月18日平生基地出撃フィリピン東方海域向かったパラオ島北方250カイリ付近哨戒任務中の7月29日午後1135分頃、水平線上に敵大型艦らしき物を確認し急速潜航行い潜望鏡深度保ったまま敵艦に近づいて行った潜望鏡敵艦艇を戦艦クラス確認した橋本は、回天搭乗員出撃命令を下すと共に魚雷用意命令発した最初回天による特攻戦術考えた橋本であったが、敵艦を完全に捕捉しているので魚雷による攻撃でも充分判断し回天での攻撃取り止めた前日に2基の回天出撃させてはいたが、回天の特眼鏡性能悪く夜間当日は月が出ていて、潜水艦夜間潜望鏡では視認可能であったが、多く天候自体よくなかった)の攻撃は非常に困難であった回天搭乗員橋本対し何度も出撃催促を行う場面もあったが、「通常魚雷沈められるときは通常魚雷攻撃する」と述べて却下している。後年回顧によると、無駄な特攻による戦没者これ以上出したくなかったとも述べている。 明けて7月30日午前0時2分に、距離1500mから6本の魚雷深度4m速力48kt、それぞれ3度角度扇状に3秒間隔で発射しその内の3発が(アメリカ軍によると2発)命中したインディアナポリス大きく右舷傾き、僅か15分ほどで沈没した一説によればインディアナポリスは5分で沈んだとも云われる)。これは橋本の「唯一の戦果」とも言われており、日本海軍最後大戦果とも言われている。インディアナポリスSOS一回打信した直後電気系水没アメリカ海軍はたった一回SOS受信しながら組織内齟齬により司令部連絡が伝わらず、インディアナポリス乗組員悲惨な漂流強いられた橋本は「アイダホ戦艦撃沈確実」と報告したが、自らが沈めたこの艦が『インディアナポリスであったこと、広島長崎投下され原子爆弾テニアン島輸送したのちに、レイテ島移動中だった事を知ったのは戦後のことであったアメリカ軍側は、インディアナポリス潜水艦による魚雷攻撃撃沈されたという事実を確認すると、原爆輸送情報事前に日本軍側に漏洩していたのではないか疑い戦後橋本対しアメリカにまで呼んで数日間渡り尋問行ったとも言われている。しかしインディアナポリス撃沈は全くの偶然であった米海軍は「適切なジグザグ運動をしていたら、インディアナポリス撃沈防げた」と考え状況確認行ったが、橋本は「あの位置関係ならばジグザグ運動をしていても撃沈できた」と証言している。またこの尋問は、正常な情報管理あったら、より早くインディアナポリス沈没を知ることができ、584名もの兵士が死ぬことは無かった。その罪をインディアナポリス艦長であったチャールズ・B・マクベイ3世に全責任負わせるために、橋本以行に「インディアナポリス適切な回避行動とっていたら、撃沈できなかった」と証言させたい為に、わざわざアメリカにまで呼んで証言させたと言われ実際に橋本対す尋問内容もこの説の内容沿ったものになっている。マクベイ大佐追及するために、英語に堪能なわけでもない橋本公費アメリカ本土渡航させて喚問したことは、当時米国内でも物議を醸した民主党のロバート・ドウトン(英語版議員至っては、「ジャップ将校召喚し自軍将校不利な証言をさせるとは、今まで聞いた中で最も卑劣なことだ。私は25年間、海軍裁判所委員会法務生計立ててきたが、これは全裁判所委員会議会調査通して史上低レベルだ」と辛らつ批判している。ただし、橋本自身はこのとき非常に厚遇されており、後に「軟禁状態であったものの、名誉ある将校のように扱われ驚いた」と語っている。 2020年1月11日ナショナルジオグラフィック(日本語版)で放映された「悲劇USSインディアナポリス探せ」の中で、橋本本人がこの予備尋問宣誓証言をしている模様記録した当時白黒フィルム映像挿入されており(ナレーション被ってしまってはいるものの)、本人肉声聞く事が出来る。結局予備尋問のみで橋本帰国し、マクベイは有罪判決受けて自殺追い込まれた。 橋本自身は、マクベイの名誉回復に最も熱心だったと言われている。アメリカでマクベイの名誉回復動き始まったことを日本ジャーナリストから知らされたのを受け、1999年11月上院軍事委員委員長ジョン・ウォーナー電子メール送り、マクベイの名誉回復訴えている。しかし、マクベイの名誉が回復されたのは橋本亡くなった五日後(2000年10月30日)のことであった1990年橋本インディアナポリスの元乗組員らと交流し和解している。橋本死後の2015年にも、娘と孫が元インディアナポリス乗組員会合招かれ生存者らと交流している。

※この「『インディアナポリス』雷撃・撃沈」の解説は、「橋本以行」の解説の一部です。
「『インディアナポリス』雷撃・撃沈」を含む「橋本以行」の記事については、「橋本以行」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「『インディアナポリス』雷撃・撃沈」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「『インディアナポリス』雷撃・撃沈」の関連用語

『インディアナポリス』雷撃・撃沈のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



『インディアナポリス』雷撃・撃沈のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの橋本以行 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS