「つばめ」・「はと」の電車化
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「こだま (列車)」の記事における「「つばめ」・「はと」の電車化」の解説
「こだま」運行開始後も、「つばめ」・「はと」は引き続き電気機関車牽引の客車列車として運転されていたが、使用している車両の老朽化は激しく、置き換えが行われることになった。「こだま」の人気と実績により、既に電車による優等列車運転に疑問を唱えるものはいなくなり、この置き換えでは「こだま」と同一編成に統一して電車列車とすることになった。「はと」は「つばめ」に統合されることになり、1960年(昭和35年)6月1日のダイヤ改正から上下とも「第1こだま」「第1つばめ」「第2こだま」「第2つばめ」の順で運転されることになった。13億円の投資を行って線路改良をさらに行い、停車駅を2駅増やしつつさらに10分の時間短縮を行って東京 - 大阪間を6時間30分とした。 「つばめ」の電車化により、従来の客車列車に存在した展望車や食堂車の代替が望まれた。従来の「こだま」にはビュフェのみの連結であったが、この改正に合わせて食堂車サシ151形が製造されて連結された。展望車の代替としては、2 m×1 mの大窓を備えた区分室や、通路の両側に1列のみの座席の配置された開放室など、1両の定員が18名という豪華なクロ151形「パーラーカー」が用意された。またダイヤ改正の2か月後の8月から、ビュフェに電話室が設置されて、日本電信電話公社(のちのNTTグループ)と接続した列車電話のサービスが開始された。電話を掛けられる地域は東京・名古屋・大阪限定であったが、上下4往復の列車のためだけに東海道沿線14箇所に基地局を設置して、400 MHz帯のUHF無線通信でつなぐシステムが用意された。パーラーカーでは、パーサーが電話機を持参して自分の席で電話を掛けられるサービスもあった。 ダイヤ改正前日の5月31日には、田町電車区で編成の入れ替え作業が行われた。それまで3編成であったのが6編成に増強されるとともに、食堂車やパーラーカーの組み込みがあり、加えて制御回路の接続の関係から車両の方向転換などもあり、事前によく計画を立てて行われた。5月31日の下りの「第2こだま」は事前に準備してあった新しい編成で運転が行われ、別途回送した新しい編成とともに6月1日の大阪発の列車をまかなった。また5月31日の午後の列車で上京してきた車両は、田町電車区に回送されて深夜に編成の入れ替え作業が行われ、翌朝の東京発の列車から新しい編成で運転された。 「こだま」に使用していた151系電車は予備車が少なく、その故障時には急行形車両の153系電車による代替運行も行われたことがあった。153系電車は接客設備では151系電車にはるかに劣るものの、速度性能は「特急」に使用されても問題ないものであった。153系電車では座席が特急用車両の水準に満たなかったのみならず、三等車はおろか二等車にすら冷房も搭載されていなかったが、この当時は冷房のないおよび座席が特急用車両の水準に満たない車両でも、特急料金を割引く規定が存在していなかったため、通常の特急料金のままであった(運転開始当時は非冷房の客車を使用した特急列車が「はつかり」の三等車などの一部にあり、座席が特急用車両の水準に満たない車両を使用した特急列車も「かもめ」の三等車など、一部に設定されていたことも要因であった)。しかし1961年10月1日の規定の改定で、冷房がない場合、および座席が特急用車両の水準に満たない場合の割引制度が制定されたため、同日以降、153系電車で運行する際は特急料金の半額を返金するようにした。利用者からはこの代替列車は「こだま」をもじって「かえだま」(替え玉)と呼ばれた。「つばめ」の電車化後も151系電車の故障時の予備車不足はまだ生じ、「かえだま」や、157系電車(日光形電車)の代替使用(「新かえだま」)もあった。こうした故障は当時のマスメディアにも取り上げられ、対策として抵抗器の容量増大や主電動機の密封化などの改良が行われて故障も減少するに至った。「かえだま」については、「第一富士」脱線事故も参照のこと。
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