奴隷貿易 大西洋奴隷貿易

奴隷貿易

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/08 13:09 UTC 版)

大西洋奴隷貿易

概要

アフリカに於ける奴隷狩りの様子。
奴隷船の内部構造。

大航海時代に、15世紀から19世紀の前半まで、とりわけ16世紀から18世紀の時期に、主にヨーロッパスペインポルトガルオランダイギリスフランスデンマークスウェーデンアメリカ州を含むヨーロッパ系植民者)とアフリカ大陸アメリカ大陸を結んで、その後約3世紀にわたってアフリカ原住民を対象として展開され、西インドのプランテーション経営に必要な労働力となった(→三角貿易)。供給源となったアフリカが西欧諸国を中心とした世界経済システムの外にあった期間は、経済圏外からの効果的な労働力供給手段として機能したが、地域の人的資源が急激に枯渇してしまい、それに伴う奴隷の卸売り価格の上昇、そして需要元である南北アメリカの農業の生産量増大による産物の価格低下、さらに現地生まれの奴隷も増えたことで、植民地における奴隷の価格は、原価高騰分を吸収できるほど高くならなかったことなどにより、奴隷貿易は次第に有益とは見なされなくなり縮小に向かった。その後は人道主義的あるいは産業的見地からの反対を受け、1807年にイギリスにて奴隷貿易は禁止された。

アフリカにとって奴隷貿易の開始は、現代までに続く外部勢力による大規模な搾取・略奪そのものと言われるが、現実には奴隷狩りを行い、ヨーロッパ人に売却したのは現地アフリカの勢力である。奴隷貿易によりアフリカは社会構造そのものが破壊されてしまった。これに貢献したコンゴ王国ンドンゴ王国モノモタパ王国などは衰退の運命を辿った[5]

歴史

ヨーロッパ人によるアフリカ人奴隷貿易英語版は、1441年にポルトガル人アントン・ゴンサウヴェス英語版が、西サハラ海岸で拉致したアフリカ人男女をポルトガルのエンリケ航海王子に献上したことに始まる。1441-48年までに927人の奴隷がポルトガル本国に拉致されたと記録されているが、これらの人々は全てベルベル人で、黒人ではない。また、拉致された人々も、王室で働く下僕ということで、扱いはさほど悪くなかったもようである。

ポルトガルの貿易権を確認するため、アフォンソ5世は教会の道徳的権威を求めてローマ教皇ニコラウス5世に支援を求めた[6]1452年、教皇はアフォンソ5世に宛てた勅書でサラセン人や異教徒を攻撃、征服、服従させる権利をポルトガルに対して認めている[7]

この教皇勅書についてリチャード・レイズウェルは、西アフリカの海岸沿いで最近発見された土地を指しており、地理的に限定されていたことは明らかであると述べている[7]。ポルトガルの事業は、西アフリカの象牙を独占していたイスラム教徒のサハラ砂漠横断キャラバンに対抗するためのものであった[8]

ニコラウス5世の勅書は4年後の1456年に教皇カリストゥス3世教皇勅書インテル・カエテラによって上書きされ効果は引き継がれた。1456年3月13日[9]オスマン帝国の進攻に対抗する作戦への支持を集めるために、教皇カリストゥス3世は教皇勅書インテル・カエテラ(1493年のインテル・カエテラと混同すべきでない)を発布した。この教皇勅書は、ポルトガルが西アフリカ沿岸で発見した領土に対する権利を認め、サラセン人等の異教徒の領土をキリスト教国王領とし永久に臣下にすることを認めた先行する2つの教皇勅書を承認、更新するものであった。教皇カリストゥス3世はヨーロッパ各国に大使を派遣し、諸侯にトルコの侵略の危機を食い止めるために再び参加するよう懇願したが、ヨーロッパの諸侯は、それぞれの国家間の対立もあり、教皇の呼びかけになかなか応じなかった。1456年6月29日、カリストゥスは、ベオグラードを守る人々の幸福を祈るために、正午に教会の鐘を鳴らすよう命じた。ハンガリー軍総司令官フニャディ・ヤーノシュ率いる軍はオスマン帝国軍と遭遇し、1456年7月22日にベオグラードでこれを撃破した[10]

特定の国民国家に排他的な勢力圏を委託するという概念は、1493年、ローマ教皇アレクサンデル6世の教皇勅書インテル・カエテラによって承認、更新され、西アフリカ沿岸からアメリカ大陸に拡大された[11][12][13]

教皇アレクサンデル6世の教皇勅書には、ポルトガルとスペインの双方とも全く注意を払わなかった[14]。その代わりに1494年トルデシリャス条約を交渉し、線をさらに西に移動し、ポルトガルのカーボベルデ諸島の西370リーグの子午線とし、線の東に新たに発見された全ての土地を明確にポルトガルに与えることになった[15]

1512年、ポルトガルがモルッカ諸島を「発見」したことを受けて、スペインは1518年に教皇アレクサンデル6世が世界を2つに分けたという説を唱えたが[16]、この頃までには他のヨーロッパ諸国は、教皇が新世界のような広い地域の主権を統括する権利があるという考え方を完全に拒否していた。スペイン国内でもフランシスコ・デ・ビトリアのような有力者がインテル・カエテラの有効性を否定していた。スペインはローマ教皇庁の教皇勅書に基づく領有権を放棄しなかったが、スペイン王家は大西洋の境界線をめぐってローマ教皇の制裁を求めることもしなかった。むしろスペインはポルトガルと直接交渉をすることを選んだ[17]

1512年カリブ海(後にジャマイカプエルトリコ)の先住民の虐待を禁止したブルゴス法が定められたが、1537年の教皇勅書スブリミス・デウスによって以前の教皇勅書を更新・拡大したインテル・カエテラ(1493年)は最終的に無効にされた[18]

大航海時代のアフリカの黒人諸王国は相互に部族闘争を繰り返しており、奴隷狩りで得た他部族の黒人を売却する形でポルトガルとの通商に対応した。ポルトガル人はこの購入奴隷を西インド諸島に運び、カリブ海全域で展開しつつあった砂糖生産のためのプランテーションに必要な労働力として売却した。奴隷を集めてヨーロッパの業者に売ったのは、現地の権力者である黒人やアラブ人商人である。

初期の奴隷貿易は、ヨーロッパ人商人、冒険家、航海者などが、自己の利益のために自己負担で行った私的なもので、小規模なものであった。その後、中南米地域の植民地化に伴うインディオ人口の激減、植民地のヨーロッパ系人口がなかなか増えないこと[注釈 1]、熱帯地域において伝染病によるヨーロッパ系移民の死者が多発していたことなどで、労働者が不足するようになっていた。また、ヨーロッパ産の家畜は植民地で数が増えにくく、農耕の補助に家畜が使えなかった。こうした理由により、当時の理論では熱帯性の気候に慣れて伝染病にも強いと考えられたアフリカ人が労働力として注目されるようになり、奴隷取引は次第に拡大していく事になった。しかし、奴隷狩りから奴隷貿易へのシフトは、中南米植民地の開発よりもずっと早い1450年代に起こっている。1450年代に入ると、カシェウポルトガル領ギニア、現ギニアビサウ)、ゴレ島セネガル)、クンタ・キンテ島ガンビア)、ウィダー(現在のベニンギニア湾に面する奴隷海岸)、サントメコンゴ)などの地元勢力が、戦争捕虜や現地の制度下にある奴隷をポルトガル商人に売却するようになった。

1480年代にはエルミナ城黄金海岸)が建設される。特に1480年代には、ポルトガルとスペインで独占的な奴隷貿易会社ギニア会社英語版が設立されるにいたった(勅許会社)。この時代、カリブ海地域のスペイン領向けとして、ポルトガルの独占下で奴隷を売ってもらえないイギリスの冒険商人による奴隷狩りが散発的に行われ、中でもジョン・ホーキンスフランシス・ドレークの航海は有名である。しかし、誤解も多いが、映画に見られるような白人による奴隷狩りはごく稀なケースである。その後、奴隷貿易の主導権がオランダ、フランス、イギリスなどに移り変わっても、特許会社が現地に要塞/商館/収容所兼用の拠点を置き、現地勢力が集めた奴隷を買い取って収容し、それをさらに船に売り渡すという形式のみとなる。そして時代が下るにつれて、ウィダー王国英語版ダホメ王国[19]セネガンビアなど西アフリカ地域のアフリカ人王国は、奴隷貿易で潤うようになる。売られた人々は元々、奴隷、戦争捕虜、属国からの貢物となった人々、債務奴隷、犯罪者などだったが、コンゴなどでは、ヨーロッパ人に売却する奴隷狩りを目的とする遠征も頻繁に行われた[20]。16世紀には、ナイジェリアラゴス)などでも奴隷をポルトガル商人に売却するようになった。

奴隷販売の広告(1829年)。

18世紀になると、イギリスのリヴァプールやフランスのボルドーから積み出された銃器その他をアフリカにもたらし、原住民と交換。さらにこうして得た黒人を西インド諸島に売却し、砂糖などをヨーロッパに持ち帰る三角貿易が発展した。また、アフリカでは綿布の需要が多いことにイギリスの資本家が目をつけ、マンチェスターで綿工業を起こした。イギリス産業革命の基盤である綿工業は、奴隷貿易が呼び水となって開始されたことが注目に価する。バークレー銀行の設立資金やジェームズ・ワット蒸気機関の発明に融資された資金は奴隷貿易によって蓄積された資本であると伝えられている。[5]

規模

約3世紀に及ぶ奴隷貿易で大西洋を渡ったアフリカ原住民は1500万人以上と一般には言われているが、学界では900万人-1100万人という、1969年フィリップ・カーティンの説を基にした数字が有力である。多数の奴隷船の一次記録の調査で、輸送中の死亡率がそれまで考えられていたほど高くなかった[注釈 2]、輸出先での人口増加率が意外に高いと推定される、というのが説の根拠である。ただし、カーティンの説(彼自身は900万人強を提唱していた)には、一次記録が存在しない16世紀 - 17世紀初頭に関しての推定数が少なすぎるという批判もあるが、そうした批判を踏まえても1200万人を大きく超えることはないと考えられている[20]

なお、奴隷狩りに伴う戦闘や移動させられる途中の落伍などで生じたであろう、奴隷がヨーロッパの特許会社の収容所に集められるまでの犠牲者の数については、考察しようという試みはあるものの、正確な記録が無いため全くわからないが、様々な推定から、「輸出」された人数の少なくとも半分(0.5倍)という見積もりから、最大で5倍程度に達するとの見方もある。

奴隷貿易廃止から植民地化へ

奴隷貿易に対しては、その開始と同時に宗教的および人道主義の立場から批判が起こっていた(「奴隷制度廃止運動」を参照)。特に18世紀後半以降、宗教的/人道主義的意見と、奴隷価格の高騰という植民地側の事情がかみ合った。19世紀初頭には、まず(奴隷制度では無く)奴隷貿易禁止の機運が高まり、1803年、デンマークで世界初の奴隷貿易禁止法が発効した(法制化は1792年)。最大の奴隷貿易国であったイギリスは1807年アフリカ人奴隷貿易英語版禁止を打ち出し (en:Slave Trade Act 1807)、ナポレオンとの戦いで海軍力が慢性的に不足している中でも、アフリカ沿岸に多数の艦艇を配置して奴隷貿易を取り締まり、ラゴスなどポルトガル人の奴隷貿易港湾を制圧した。奴隷貿易廃止によってボーア人の深刻な労働力不足が引き起こされた不満から[21]1835年グレート・トレックが起こっている。なお、奴隷貿易廃止と植民地化に伴う現地の労働力の確保とが結びつけて考えられる事があるが、これは誤りである。奴隷貿易の中心である西アフリカ東アフリカの沿岸地帯の植民地化(アフリカ分割)が始まったのは、少なくともイギリスに関しては50年以上経った19世紀半ば以降のことであり、それは1880年南アフリカで起こったボーア戦争へと繋がった。

その後、カリブ海地域で成立した近代奴隷制は、19世紀前半期に次々に廃止されていった。イギリス領諸島では1833年スウェーデン海外植民地では1846年フランス領では1848年オランダ領では1863年に、奴隷制が廃止された。

こうした動きの中、アメリカ合衆国では1808年に奴隷の輸入が禁止されたが、綿花プランテーションで奴隷を使役したいアメリカ合衆国南部の農園主による密輸がその後も続いた。最後の奴隷船は、アフリカのベナンからモービルに110人を運び、証拠隠滅のため燃やされたクロチルダ号であった[22]。その直後に勃発した南北戦争で、奴隷制維持を掲げる南部諸州が結成したアメリカ連合国(南軍)が敗北。1865年に奴隷制が全廃された。

奴隷貿易への批判・謝罪

1200万人ともいわれる成人男女(後期には若年層も含む)を連れ去った奴隷貿易の影響は、現在にも及んでいるとする説がある。ネイサン・ナン英語版の研究によれば、奴隷貿易が最も激しかった地域は、現在のアフリカでは最貧困地域になっている[23]。また、ネイサン・ナンとレナード・ワンチェコン英語版の研究によると、奴隷貿易の被害にあった地域では、そうでない地域に比べると家族・隣人・民族・政府に対する信頼感が低いという[24]

21世紀においても、奴隷貿易への批判は後をたたない。2004年3月、奴隷貿易に関与していた英国ロイズ保険組合、米国たばこメーカー大手R.J.レイノルズ・タバコ・カンパニーなどに対して奴隷の子孫のアメリカ人が訴訟を起こした。

2020年6月、アメリカ合衆国で発生した反人種差別デモは世界各地へ波及。英国ブリストル市内では、熱心な慈善活動家である一方で奴隷商人でもあったエドワード・コルストンの銅像がデモ参加者の襲撃を受け、地面に引き倒された後にエイボン川へ投棄される出来事があった[25]


注釈

  1. ^ 貧しい白人入植者が、年季奉公の形で期限付きであっても奴隷同然の扱いを受けるのは一般的であり、概して海外植民地は不人気だった。
  2. ^ 平均13%、なお奴隷船は船員にとっても過酷な職場であり、船員の死亡率は奴隷と同程度の13-15%に達し、脱走も含めた船員の脱落率は20-25%に達している。
  3. ^ 一般に排水量が増えるほど必要とされる乗組員数は多くなる。
  4. ^ 毎年一隻に日本と中国の間での貿易事業の権利が与えられ、日本への航海のカピタン・マジョールの称号が与えられた[37]
  5. ^ 船倉内に可能な限り多くの奴隷を入れることを可能とした複層区画の奴隷船が登場するのは17世紀以降である。1570年セバスティアン1世 (ポルトガル王)は300トン以下、450トン以上の船の建造を禁止している[43][44]。ポルトガルは最盛期でさえも300隻以上の船を保有しておらず、1585年から1597年までにインドへ出航した66隻のうち無事に戻ってきたのは34隻だけであった[45]。16世紀から17世紀を通じてポルトガル―インド間を運行したナウ船の中でも最大級のものは載貨重量トン数600トン(現代の計算方法で換算すると排水量1100トン[46][44])にもなり乗組員、乗客、奴隷、護衛の兵士を含む400-450人を乗せることができたという[47]。排水量900トンのナウ船は77人の乗組員、18人の砲兵、317人の兵士、26の家族を乗船させることができた[48][注釈 3]。 日明間の航路については、貿易風の性質上、1年周期に限定されており、ナウ船1隻だけを使用することで利益を最大化した[49][注釈 4]。ポルトガルのナウ船は毎年1000〜2500ピコ(1ピコ=60キログラム)のを運んだという[50]。3000ピコは180トンの絹に相当するため船倉容積は250から400立方メートルと推定でき、それに武装、備品、乗組員、乗客、兵士、食料と水が加わっていたと推測される。硫黄、銀、海産物、刀、漆器等の日本特産品の入荷量によって乗船できる人数は上下したと考えられる。
  6. ^ 天正遣欧使節記』の目的をヴァリニャーノはポルトガル国王やローマ教皇に対して政治的、経済的援助を依頼するためと書き残している。『天正遣欧使節記』はポルトガルの奴隷貿易に関連して引用されることがあるが、イエズス会は1555年の最初期の奴隷取引からポルトガル商人を告発している[65]。イエズス会による抗議は1571年セバスティアン1世 (ポルトガル王) による日本人奴隷貿易禁止の勅許公布の原動力としても知られている[66]日本人奴隷の購入禁止令を根拠に奴隷取引を停止させようとした司教に従わないポルトガル商人が続出、非難の応酬が長期に渡り繰り返される事態が続いた[67][68][69]。ポルトガル国王やインド副王の命令に従わず法執行を拒否して騒動を起こすポルトガル商人や裁判官等も数多くいたという[70]。宣教師によって記述された情報は「ポルトガル王室への奴隷貿易廃止のロビー活動」[71]として政治的な性質を帯びており、宣教師側がポルトガル王室から政治的援助を受けるため、さらにポルトガル商人を批判して奴隷売買禁止令の執行実施を促すために生み出した虚構としての側面からも史料批判が必要と考えられる。
  7. ^ 豊臣秀吉は「人心鎮撫の策」として、遊女屋の営業を積極的に認め、京都に遊廓を造った。1585年に大坂三郷遊廓を許可。89年京都柳町遊里(新屋敷)=指定区域を遊里とした最初である。秀吉も遊びに行ったという。オールコックの『大君の都』によれば、「秀吉は…部下が故郷の妻のところに帰りたがっているのを知って、問題の制度(遊廓)をはじめたのである」やがて「その制度は各地風に望んで蔓延して伊勢の古市、奈良の木辻、播州の室、越後の寺泊、瀬波、出雲碕、その他、博多には「女膜閣」という唐韓人の遊女屋が出来、江島、下関、厳島、浜松、岡崎、その他全国に三百有余ヶ所の遊里が天下御免で大発展し、信濃国善光寺様の門前ですら道行く人の袖を引いていた。」(中村三郎『日本売春史』)のだという。

出典

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  65. ^ Slavery in Medieval Japan, Slavery in Medieval Japan, Thomas Nelson, Monumenta Nipponica, Vol. 59, No. 4 (Winter, 2004), pp. 463-492, "As early as 1555, complaints were made by the Church that Portuguese merchants were taking Japaense slave girls with them back to Portugal and living with them there in sin....Political disunity in Japan, however, together with the difficulty that the Portuguese Crown faced in enforcing its will in the distant Indies, the ready availability of human merchandise, and the profits to be made from the trade meant that the chances were negligible of such a ban actually being enforced. In 1603 and 1605, the citizens of Goa protested against the law, claiming that it was wrong to ban the traffic in slaves who had been legally bought. Eventually, in 1605, King Philip of Spain and Portugal issued a document that was a masterpiece of obfuscation intended both to pacify his critics in Goa demanding the right to take Japanese slaves and the Jesuits, who insisted that the practice be banned."
  66. ^ OKAMOTO Yoshitomo. Jūroku Seiki Nichiō Kōtsūshi no Kenkyū. Tokyo: Kōbunsō, 1936 (revised edition by Rokkō Shobō, 1942 and 1944, and reprint by Hara Shobō, 1969, 1974 and 1980). pp. 728-730
  67. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. pp. 496-497 "If that is the case, the king had then sent copies of the same order to India at least three times: in 1603, when Aires de Saldanha published it, in 1604, with Martim Afonso de Castro, and in 1605."
  68. ^ COSTA, João Paulo Oliveira e. O Cristianismo no Japão e o Episcopado de D. Luís Cerqueira. PhD thesis. Lisbon: Universidade Nova de Lisboa, 1998, p. 312. Sousa indicates the same letters, but he mistakenly attributed them to Filipe II, Filipe III’s father. See SOUSA, Lúcio de. Escravatura e Diáspora Japonesa nos séculos XVI e XVII. Braga: NICPRI, 2014, p. 298.
  69. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p. 493
  70. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. pp.494-504
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  72. ^ 『娯楽業者の群 : 社会研究』権田保之助著 実業之日本社、1923年
  73. ^ 唐権『海を越えた艶ごと一日中文化交流秘史』(新説社、2005年)p.121
  74. ^ 古賀十二郎『新訂丸山遊女と唐紅毛人』(長崎文献社、1968年)p.232
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  78. ^ a b Tomoko Yamazaki; Karen F. Colligan-Taylor (2015). Sandakan Brothel No.8: Journey into the History of Lower-class Japanese Women. Translated by Karen F. Colligan-Taylor. Routledge. p. 63. ISBN 978-1317460251. https://books.google.com/books?id=vlXrBgAAQBAJ&pg=PA63 
  79. ^ 太田淑子編『日本史小百科 キリシタン』(東京堂出版)pp.148-149
  80. ^ 1893年(明治26)外務省訓令「婦女ヲシテ妄リニ海外渡航ヲ企図セシメサル様注意セシム」”. 国立公文書館アジア歴史資料センター. 2021年9月29日閲覧。 “外務省訓令第一号 警視庁 北海道庁 府県 近来不良の徒各地を徘徊し甘言を以て海外の事情に疎き婦女を誘惑し、遂に種々の方法に因りて海外に渡航せしめ、渡航の後は正業に就かしむることを為さず却て之を強迫して醜業を営まして、若くは多少の金銭を貪りて他人に交付するものあり。之が為めに海外に於て言ふに忍びざるの困難に陥る婦女追追増加し在外公館に於て救護を勉むと雖も或は遠隔の地に在りて其所在を知るに由なく困難に陥れる婦女も亦種々の障碍の為めに其事情を出訴すること能はざるもの多し。依て此等誘惑渡航の途を杜絶し且つ婦女をして妄りに渡航を企図せしめざる様取計ふべし 明治二十六年二月三日 外務大臣陸奥宗光 内務大臣伯爵井上馨
  81. ^ (28)各府県知事ト在浦汐貿易事務館間婦女誘拐者ニ関シ直接通信ノ件 自明治三十六年八月 ※1903年(明治36年)在ウラジオストク貿易事務官から本国日本外務省への文書”. 国立公文書館アジア歴史資料センター. 2021年9月29日閲覧。 “本邦無智の少女を誘拐して当港に来航する悪漢之有り候趣は本月八日付公第二〇三号を以て申進置候処、当港年来の商況不振は正当なる商業者より其職業を奪ひ新渡航者に対しては従前の如く容易なる生活の方法を与へず、意思薄弱なる本邦男児をして漸次堕落の境域に導き、茲に無頼の徒と化し賎業者の手に依りて漸く其口を糊するもの多きに至り候は、慨はしき次第に之有り候。而して是等無頼漢唯一の生命は実に本邦無智の少女に懸るを以て、彼等は出来得る限り好餌を捉へんと欲し、百方訏(?)策を廻らし在本邦の誘拐者と気脈を通じて、或は汽船に依り或は日本形小漁船等に依り無智の少女を誘致し之を奪食する者日一日増加の勢之有り候。”
  82. ^ 長田秋濤『新々赤毛布:露西亜朝鮮支那遠征奇談』文禄堂、1903年、196-198頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/761167/107。"醜業婦の出産地 西比利亜(シベリア)に渡航して行て醜業婦人と云ふ憐れむべき名称に甘んじて外国人に情を交はして、御髯の塵を払ふて居るもの共の出産地の戸籍を酔狂にも洗って見れば、大概は九州で其多数は九州の内で熊本県天草か、長崎県島原辺りの者で長崎市の内外も沢山ある、其の次は中国から中仙道に懸けてゞある…其事を聞き込んだる誘拐者が有らん限りの甘言を尽して之を誘ひ出し、自分の懐暖めの材料に做すと云ふ様な具合で、斯く一人連れ二人連れて行たのが今日の如く殖えたのである。"。 
  83. ^ 中村直吉, 押川春浪『五大洲探険記. 第2巻 南洋印度奇観』博文館、1909年、13-14頁。"九州が醜業婦唯一の輸出地であることは、三歳の童子でも知ってる有名な事実だが、猶且此地方に出稼の醜業婦も、殆んど其の全部が九州出身で、長崎天草島原辺の者が多いやうである。  以前は誘拐の口実として種々の甘言を弄したので、無智の婦女はウカと夫に乗って、新嘉坡三界迄地獄の憂目を見に行くやうになったのであるが…"。 
  84. ^ (7)婦女誘拐者取締ニ関シ香港領事館ト内地地方庁間直接通信ノ件 自明治四十五年七月 ※1912年(明治45)在香港総領事から日本外務省への文書”. 国立公文書館アジア歴史資料センター. 2021年9月29日閲覧。 “香港は南清南洋地方に於ける婦女誘拐の策源地とも見るを得べく、従て本邦より無智の婦女を誘拐し来るもの、或は斯る目的を抱きて当地より帰国する悪漢之有り。当館は斯るものに対し厳重監視致候へ共、法規の制裁之に伴はざるを以て、如何とも致難候。…”
  85. ^ “日本侵華硏究”. Journal of Studies of Japanese Aggression Against China (日本侵華研究學會) (5–8): 64. (1991). https://books.google.com/books?id=m-81AQAAIAAJ. 
  86. ^ Tomoko Yamazaki; Karen F. Colligan-Taylor (2015). Sandakan Brothel No.8: Journey into the History of Lower-class Japanese Women: Journey into the History of Lower-class Japanese Women. Routledge. ISBN 978-1317460244. https://books.google.com/books?id=se7qBgAAQBAJ&pg=PT269 
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  96. ^ James Francis Warren (2003). Ah Ku and Karayuki-san: Prostitution in Singapore, 1870–1940. Singapore Series, Singapore: studies in society & history. NUS Press. p. 83. ISBN 978-9971692674. https://books.google.com/books?id=Eo_Hav3qHYEC&pg=PA83 
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  103. ^ Yamazaki & Colligan-Taylor 2015.






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