奴隷貿易の進展とその影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 08:00 UTC 版)
「近世から近代にかけての世界の一体化」の記事における「奴隷貿易の進展とその影響」の解説
詳細は「三角貿易」を参照 16世紀以降、ヨーロッパ商人が奴隷貿易に進出すると3世紀の間に約1,000万人の黒人が奴隷として売られたと推定され、アフリカは唯一、人口が減少した大陸となった。なかでも1701年から1810年の間には600万人を越す黒人が大西洋を渡った。奴隷船(slave ship)には乗せられるだけの奴隷が乗せられ、栄養失調やチフスで多くの奴隷が死に、海へ投げ捨てられた。奴隷船は遠くからも汚臭を放ち、近くには海にうち棄てられる遺体をめあてにしたサメが泳いでいたという。絶望のあまり自殺する者がでたり、反乱がおこることもあった。奴隷狩りや輸送中での死亡者数を加えると数千万人が故郷から引き離されたと考えられる。アフリカは深刻な労働力不足に陥り、その後の開発が遅れた一因となった。 西インド諸島では、砂糖のモノカルチャーのため、食糧輸入が途絶えると飢饉となって餓死者が出た。欧米の砂糖需要に左右され、その政治・経済は完全に西ヨーロッパに従属した。 ここに至って、ヨーロッパ、西アフリカ、西インド諸島の3地域を頂点とし、辺にあたる貿易ルート特定の海流に乗った一方通行となる大西洋三角貿易が構造化した(ルートは下記参照)。三角貿易の構造化により、北米植民地では、ラム酒製造や造船業、海運業などが発達し、ニューヨークなどの港湾都市が栄えてアメリカ独立の資金源となっていった。 ヨーロッパからは、毛織物・ラム酒・武器が、カナリア海流に乗って 西アフリカへ。 西アフリカからは、奴隷(“黒い積み荷”)が、南赤道海流に乗って 西インド諸島などへ。 西インド諸島などからは、砂糖(のちには綿も)(“白い積み荷”)が、メキシコ湾流と北大西洋海流に乗って ヨーロッパへ。 イギリスは、1713年のユトレヒト条約で独占的奴隷供給権を獲得し、砂糖貿易とともに莫大な利潤を得た。奴隷貿易で栄えたリヴァプールやブリストルの港湾都市には資本が蓄積され、その後背地にあたるマンチェスターやバーミンガムは、産業革命の時代には工業都市として発達することとなる。
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