奴隷解放運動から南北戦争への従軍
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「ハリエット・タブマン」の記事における「奴隷解放運動から南北戦争への従軍」の解説
1847年、奴隷主が死に、奴隷は売り払われると聞いたことをきっかけに、脱出を渋る夫を残して北部のフィラデルフィアへ逃亡した。その途上、奴隷解放運動主義者で非合法組織である地下鉄道を支援していたクェーカー教徒に助けられた。 フィラデルフィアではレビ・コフィンやトーマス・ギャレット、フレデリック・ダグラスやジョン・ブラウンらの奴隷解放運動家と交流を持った。やがて脱走奴隷を助けることを違法化する「逃亡奴隷法」(en) が1850年に成立した。タブマンは、奴隷を自由にする活動をしている人々の組織である「地下鉄道(Underground Railroad)」に加わる決心をすると、地下鉄道の「車掌」としてその運行をはじめた。やがてタブマンの受け持ち路線は当時のアメリカの北の国境へと伸びていった。 後述の自叙伝によれば、1850年から1860年の間に約19回の南部との往復を繰り返したといい、自分の両親を含む300人余りの奴隷の「乗客」のだれも捕まることなく自由に導いたとされる。ハリエット・タブマン自身も一度も捕まらず、「車掌」として成功をおさめ、その活動のリーダー的な存在になったという。そのためタブマンに掛けられた賞金額は合計4万ドルを超えたとされる。しかしケイト・ラーソン (en) の研究によれば、実際に助けたのは13回の往復で70-80人ほどであり、掛けられた賞金も50-100ドル程度という説もある。 1861年に南北戦争が勃発すると、料理人および看護婦として働くとともに、北軍のためのスパイ、武装した斥候をも務めた。1863年夏、タブマンはサウスカロライナ州で解放奴隷に読み書きを教えていたとき、北軍が近くの川の渡し場(Combahee Ferry)を襲撃すると聞いて作戦に加わると、アメリカ史上初の女性指揮官として兵士を動かし、避難した南軍側の地主が置いていった奴隷750人近くを船に載せて北軍領地に移送した。このときを含め、軍務においても、タブマンは一度も捕えられることはなかった。「地下鉄道」の「車掌」だった時の経験から、地方の事情に詳しかったため、斥候として高い評価を受けた。
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