奴隷解放以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/10 05:51 UTC 版)
詳細は「南北戦争におけるバハマ(英語版)」を参照 1830年代と1840年代、奴隷貿易に関与した米国商船がナッソーに入港したか近くで遭難したことで、英米間に緊張が生じた。ヘルモサ(英語版)(1840年)とクレオール(英語版)(1841年)が一例であり、うち後者は船上に奴隷反乱がおきたためナッソーに入港した。イギリスはバハマとバミューダ水域に進入した奴隷は解放されると諸国に通知しており、米国の返還交渉をはねつけた。1853年、英米は請求条約を締結、1814年以降の請求への調停に同意した。その後、英米は1855年に請求を支払った。 南北戦争中、バハマはアメリカ連合国の海上封鎖突破基地として隆盛した。すなわち、合衆国による海上封鎖に対し、綿をイングランドの工房に密輸して、武器と弾薬を運び戻したのであった。しかし、連合国は結局敗北に終わり、商品作物の育成にも失敗したバハマの繁栄は長く続かなかった。 奴隷解放により、カリブ海の社会は固定化した民族格差に直面した。富と権力の分配が不公平だったことも災いした。白人、混血、黒人という3等制は1940年代まで続き、一部ではさらに長く続いた。アフリカ系アメリカ人と同じく、多くがヨーロッパやアメリカの先住民族の血統も有した。カリブ海の社会は民族問題に苦しみ続けた。 1911年、バハマをカナダに併合させるための運動が短期間ながらおきた。この運動はナッソー住民の多くとカナダの保険会社サン・ライフ・ファイナンシャル(英語版)の社長から支持を受けたが、イギリス政府が主に黒人で構成されたバハマ植民地と主に白人で構成されたカナダ国の合併に反対したこともあって失敗に終わった。
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