奴隷海賊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/10 06:19 UTC 版)
「カリブ海の海賊 (歴史)」の記事における「奴隷海賊」の解説
主にアフリカの各所から多くの奴隷がカリブ海の植民地に輸出され、プランテーションでの労働力とされた。1673年から1798年に奴隷にされ植民地に運ばれた人々の中で9ないし32%は子供達だった(イギリスのみの輸出を考慮した数字)。植民地までの船旅は平均して12週間かかり、その間奴隷は劣悪な条件下におかれた。すなわち、立つこともできないような狭い空間、高い気温、貧しい食事であり、病気やその結果としての死も多かった。多くの奴隷は奴隷にされる前に、内乱の犠牲者か捕虜だった。奴隷であるよりも海賊の生活様式が魅力あるものになった。 17世紀と18世紀に海賊はその絶頂期にあり、自由の象徴的な解釈も最盛期だった。この抽象概念は奴隷や帝国主義の犠牲者に大変訴えるものがあった。ヨーロッパの主要な列強は奴隷が自由になる機会を見出すことを望まなかったが、「1715年から1725年に活動した海賊5,000人以上の中で30%はアフリカ人の子孫だった」とされている。新しい生活と自由の機会と共に、アフリカの先住民はそれ以前に個人が海賊の社会に加わるという平等さを経験していた。海賊になった多くの奴隷が、海賊船で指揮官や特権のある地位を確保した。中には船長になった者もいた。多くの奴隷の出身地の中にマダガスカルがあった。ジャマイカ、バルバドスなどアメリカの植民地に奴隷を輸入した最大の国はイギリスだった。
※この「奴隷海賊」の解説は、「カリブ海の海賊 (歴史)」の解説の一部です。
「奴隷海賊」を含む「カリブ海の海賊 (歴史)」の記事については、「カリブ海の海賊 (歴史)」の概要を参照ください。
- 奴隷海賊のページへのリンク