奴隷貿易廃止から植民地化へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 02:06 UTC 版)
「奴隷貿易」の記事における「奴隷貿易廃止から植民地化へ」の解説
奴隷貿易に対しては、その開始と同時に宗教的および人道主義の立場から批判が起こっていた(「奴隷制度廃止運動」を参照)。特に18世紀後半以降、宗教的/人道主義的意見と、奴隷価格の高騰という植民地側の事情がかみ合った。19世紀初頭には、まず(奴隷制度では無く)奴隷貿易禁止の機運が高まり、1803年、デンマークで世界初の奴隷貿易禁止法が発効した(法制化は1792年)。最大の奴隷貿易国であったイギリスは1807年、アフリカ人奴隷貿易(英語版)禁止を打ち出し (en:Slave Trade Act 1807)、ナポレオンとの戦いで海軍力が慢性的に不足している中でも、アフリカ沿岸に多数の艦艇を配置して奴隷貿易を取り締まり、ラゴスなどポルトガル人の奴隷貿易港湾を制圧した。奴隷貿易廃止によってボーア人の深刻な労働力不足が引き起こされた不満から、1835年にグレート・トレックが起こっている。なお、奴隷貿易廃止と植民地化に伴う現地の労働力の確保とが結びつけて考えられる事があるが、これは誤りである。奴隷貿易の中心である西アフリカ、東アフリカの沿岸地帯の植民地化(アフリカ分割)が始まったのは、少なくともイギリスに関しては50年以上経った19世紀半ば以降のことであり、それは1880年に南アフリカで起こったボーア戦争へと繋がった。 その後、カリブ海地域で成立した近代奴隷制は、19世紀前半期に次々に廃止されていった。イギリス領諸島では1833年、スウェーデン属領では1846年、フランス領では1848年、オランダ領では1863年に、奴隷制が廃止された。 こうした動きの中、アメリカ合衆国では1808年に奴隷の輸入が禁止されたが、綿花プランテーションで奴隷を使役したい南部の農園主による密輸がその後も続いた。最後の奴隷船は、アフリカのベナンからモービルに110人を運び、証拠隠滅のため燃やされたクロチルダ号であった。その直後に勃発した南北戦争で、奴隷制維持を掲げる南部諸州が結成したアメリカ連合国(南軍)が敗北。1865年に奴隷制が全廃された。
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