奴隷貿易 日本人奴隷の貿易

奴隷貿易

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/09 16:29 UTC 版)

日本人奴隷の貿易

16世紀から17世紀にかけての日本は、大航海時代を迎えて列強となったポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスなどのヨーロッパ諸国から、東南アジアにおける重要な交易相手としてだけでなく植民地維持のための戦略拠点としても重視された。この時代は日本は室町から安土桃山時代の乱世(戦国時代)にあたり、漂着した外国船の保護を契機として、海に面した各地の諸大名が渡来する外国船から火薬などを調達し、大量の銀が海外に流出していた(南蛮貿易)。日本へは絹織物、金、生糸、中国の磁器麝香ルバーブアラビアの馬ベンガル孔雀、インドの高級な緋色の布、更紗フランドルの時計、ヴェネチアガラスなどのヨーロッパ製品、ポルトガルワインレイピアなどが入り、日本からの輸出品には硫黄、海産物、漆器、そして少数ではあるが日本人奴隷が含まれていた。ポルトガル船の主要品目に硝石は含まれない[36]が、古い家屋の床下にある土から硝酸カリウムを抽出する古土法、主にカイコの糞を使う培養法による硝石製造が五箇山等の各地で行われ国産化が進んだ。

1514年にポルトガル人がマラッカから中国と貿易を行って以来、ポルトガル人が初めて日本に上陸した翌年には、マラッカ、中国、日本の間で貿易が始まった。中国は倭寇の襲撃により、日本に対して禁輸措置をとっていたため、日本では絹等の中国製品が不足していた[37]

当初、日本との貿易は全てのポルトガル人に開かれていたが、1550年にポルトガル国王が日本との貿易の権利を独占した。以降、年に一度、一隻に日本との貿易事業の権利が与えられ、日本への航海のカピタン・マジョールの称号、事業を行うための資金が不足した場合の職権売却の権利が与えられた。船はゴアを出航し、マラッカ、中国に寄港した後、日本に向けて出発した。南蛮貿易で最も価値のある商品は、中国の絹と日本の銀であり、その銀は中国でさらに絹と交換された[38]

古来から日本の戦場では戦利品の一部として男女を拉致していく「人取り」(乱妨取り)がしばしば行われていた。この時代に入ると、侵攻地域に居住する非戦闘員に対する拉致や、非戦闘員の拉致自体を目的とした侵攻も恒常的に行われるようになっていたと考えられている。この時代に大内氏尼子氏と代る代る戦争をした毛利氏は、領内深くに尼子氏が侵入してきた際、居城に非戦闘員である農民や商人らを収容して尼子氏による乱妨取りに備えた。同種の記録はこの時代の各地で見られる。乱妨取りされた人々の中にはヨーロッパ商人や中国人商人によって買い取られ、東南アジアなどの海外に連れ出されたものも少なからずいたと考えられている。[39]

南九州の薩摩・大隅地方ではこの時代の少し前から、人々が盛んに海外に進出し私貿易を行うようになっていた。この地域では、国外で捕虜とした人々を日本に連れ帰って、来航した外国商人に奴隷として販売する事例も見られる。遣明船にも携わった西国の大名である山口の大内氏や、貿易都市であるを掌握し、細川氏を継承する四国三好氏らも、捕虜とした人々を外国商人に売却していたと考えられている。九州の南端に位置する薩摩地方の港や、「西の京」と呼ばれた山口や、遣明船貿易で繁栄した堺の町では、これまでの明人に加えて、ポルトガル商人の活動も早くから確認できる。

1537年、スブリミス・デウスにおいて教皇パウロ3世は異教徒を奴隷とすることを無効だと宣言していたが、1560年代以降、イエズス会の宣教師たちは、ポルトガル商人による奴隷貿易が日本におけるキリスト教宣教の妨げになり、宣教師への誤解を招くものと考えるようになっていた。ポルトガル国王に日本での奴隷貿易禁止の法令の発布を度々求めており、1571年には当時の王セバスティアン1世から日本人貧民の海外売買禁止の勅令を発布させることに成功した。1571年の人身売買禁止までの南蛮貿易の実態だが、1570年までに薩摩に来航したポルトガル船は合計18隻、倭寇のジャンク船を含めればそれ以上の数となる[40]。実際に取引された奴隷数については議論の余地があるが、反ポルトガルのプロパガンダの一環として奴隷数を誇張する傾向があるとされている。記録に残る中国人や日本人奴隷は少数で貴重であったことや、年間数隻程度しか来航しないポルトガル船の積荷(硫黄、銀、海産物、刀、漆器等)の積載量、奴隷と積荷を離す隔離区間、移送中の奴隷に食料・水を与える等の輸送上の配慮から、ポルトガル人の奴隷貿易で売られた日本人の奴隷は数百人程度と考えられている[41][42][注釈 5]。16世紀のポルトガルの支配領域において中国人奴隷(人種的な区別の文脈であるため日本人奴隷も含む)の数は「わずかなもの」であり、東インド人、改宗イスラム教徒、アフリカ人奴隷の方が圧倒的に多かった[52]

戦国時代に来航したポルトガル商人は主従関係などにより一時的にでも自由でない労働者を奴隷と考えており、下人、所従、年季奉公人を「奴隷」として訳していたとされる[53][54]。「譜代の者」「譜代相伝」と呼ばれていた下人や所従は、農業や家庭労働に使役され、日本国内において習慣法上売買の対象となっていた[53]

ポルトガル語で「奴隷」という語は一般的に「エスクラーヴォ escravo」と表される。日本でポルトガル人が「エスクラーヴォ」と呼ぶ人々には、中世日本社会に存在した「下人」、「所従」といった人々が当然含まれる。しかし、日本社会ではそれらと一線を画したと思われる「年季奉公人」もまた、ポルトガル人の理解では、同じカテゴリーに属した[54] — 東京大学史料編纂所 『日本史の森をゆく - 史料が語るとっておきの42話』(中公新書、2014年12月19日)pp.77-78

ポルトガル人は日本で一般的な労働形態だった年季奉公人も不自由な労使関係から奴隷とみなすなど、多くの日本人の労働形態はポルトガル人の基準では奴隷であり、誤訳以上の複雑な研究課題とされてきた[54]。ポルトガルでは不自由な労使関係、主従関係を奴隷と理解することがあり、使用される傭兵や独立した商人冒険家も奴隷の名称で分類されることがあった[55]

(日本の社会において)使用人や奴隷は地主に仕え、ひどく崇拝する。なぜなら、どんな質の高い人でも使用人に不従順なところがあれば、殺してしまえと命令するからである。そのため使用人たちは主人にとても従順で、主人と話すときは、たとえとても寒いときでも、いつも頭を下げてひれ伏している[56][57]

コスメ・デ・トーレスは日本人の主人は使用人に対して生殺与奪の権力を行使することができるとして、ローマ法において主人が奴隷に対して持つ権利 vitae necisque potestas を例証として使い、日本における使用人を奴隷と同一視した[58]。中世の日本社会では、百姓は納税が間に合わない場合に備えて、自分や他人を保証人として差し出すことができたという。税金を払わない場合、これらの保証は売却される可能性があり、農民と奴隷の区別をいっそう困難にした[59]

1587年天正15年)6月18日、豊臣秀吉九州平定の途上で、当時のイエズス会の布教責任者であった宣教師ガスパール・コエリョとの夕食後、重臣達の御前会議で施薬院全宗が寺社破壊や奴隷貿易等を行っていると讒言をし高山右近に棄教を迫ったが殉教を選ぶと拒否されたため、コエリョを詰問した[60]。翌6月19日、キリスト教の布教を禁じる『吉利支丹伴天連追放令』(バテレン追放令)を発布した[61][62]。バテレン追放令で奴隷貿易を禁じたとされるが、実際に発布された6月19日付けのバテレン追放令には人身売買を批判する文が(6月18日付けの覚書から)削除されており、追放令発布の理由についても諸説ある[63]。バテレン追放令後の1591年、教皇グレゴリー14世はカトリック信者に対してフィリピンに在住する全奴隷を解放後、賠償金を払うよう命じ違反者は破門すると宣言、在フィリピンの奴隷に影響を与えた。

デ・サンデ『天正遣欧使節記』では、同国民を売ろうとする日本文化・宗教の道徳的退廃に対して批判が行われている[64]

日本人には慾心と金銭の執着がはなはだしく、そのためたがいに身を売るようなことをして、日本の名にきわめて醜い汚れをかぶせているのを、ポルトガル人やヨーロッパ人はみな、不思議に思っているのである。 — デ ・サンデ 1590 天正遣欧使節記 新異国叢書 5 (泉井久之助他共訳)雄松堂書店、1969年、pp.232-235

デ・サンデ天正遣欧使節記はポルトガル国王による奴隷売買禁止の勅令後も、人目を忍んで奴隷の強引な売り込みが日本人の奴隷商人から行われたとしている[64]

また会のパドレ方についてだが、あの方々がこういう売買に対して本心からどれほど反対していられるかをあなた方にも知っていただくためには、この方々が百方苦心して、ポルトガルから勅状をいただかれる運びになったが、それによれば日本に渡来する商人が日本人を奴隷として買うことを厳罰をもって禁じてあることを知ってもらいたい。しかしこのお布令ばかり厳重だからとて何になろう。日本人はいたって強慾であって兄弟、縁者、朋友、あるいはまたその他の者たちをも暴力や詭計を用いてかどわかし、こっそりと人目を忍んでポルトガル人の船へ連れ込み、ポルトガル人を哀願なり、値段の安いことで奴隷の買入れに誘うのだ。ポルトガル人はこれをもっけの幸いな口実として、法律を破る罪を知りながら、自分たちには一種の暴力が日本人の執拗な嘆願によって加えられたのだと主張して、自分の犯した罪を隠すのである。だがポルトガル人は日本人を悪くは扱っていない。というのは、これらの売られた者たちはキリスト教の教義を教えられるばかりか、ポルトガルではさながら自由人のような待遇を受けてねんごろしごくに扱われ、そして数年もすれば自由の身となって解放されるからである。 — デ ・サンデ 1590 天正遣欧使節記 新異国叢書 5 (泉井久之助他共訳)雄松堂書店、1969年、pp.232-235

デ・サンデ『天正遣欧使節記』は、日本に帰国前の千々石ミゲルと日本にいた従兄弟の対話録として著述されており[64]、物理的に接触が不可能な両者の対話を歴史的な史実と見ることはできず、フィクションとして捉えられてきた[65]。『天正遣欧使節記』は虚構だとしても、豊臣政権とポルトガルの二国間の認識の落差がうかがえる[注釈 6]

伴天連追放令後の1589年(天正17年)には日本初の遊郭ともされる京都の柳原遊郭が豊臣秀吉によって開かれたが[73][注釈 7]、遊郭は女衒などによる人身売買の温床となり、江戸幕府が豊臣秀吉の遊郭を拡大して唐人屋敷への遊女の出入り許可を与えた丸山遊廓島原の乱後の1639年寛永16年)頃に作ったことで、それが「唐行きさん」の語源ともなっている[74][75]。秀吉が遊郭を作ったことで、貧農の家庭の親権者などから女性を買い遊廓などに売る身売りの仲介をする女衒が、年季奉公の前借金前渡しの証文を作り、性的サービスの提供は本人の意志に関係なく強要が横行した(性的奴隷)。すでに江戸時代から長崎の外国人貿易業者により日本人女性は妻妾や売春婦として東南アジアなどに行ったとされる[76]元禄時代(1688-1704)の頃に唐人屋敷では中国人が日本人の家事手伝いを雇うことは一般的だったが、日本人女性は中国人が帰るときについていき大半のものが騙されて売春宿に売られたという[77]。日本人女性の人身売買はポルトガル商人や倭寇に限らず、19世紀から20世紀初頭にかけても「黄色い奴隷売買」「唐行きさん」として知られるほど活発であり、宣教師が指摘した日本人が同国人を性的奴隷として売る商行為は近代まで続いた[78][79]

1596年慶長元年)、長崎に着任したイエズス会司教ペドロ・マルティンス (Don Pedro Martins) はキリシタンの代表を集めて、奴隷貿易に関係するキリシタンがいれば例外なく破門すると通達している。[80]

やがて秀吉に代わって天下人となった徳川家康によって、南蛮貿易は朱印状による制限がかかった(朱印船貿易)。さらに鎖国に踏み切ったことで、外国人商人の活動を江戸幕府の監視下で厳密に制限することになった。日本人の海外渡航と外国人の入国も禁止され、日本人が奴隷として輸出されることはほぼ消滅したとされる。

しかし、明治維新後、海外に移住しようとした日本人が年季奉公人として奴隷同然に売り払われることはあった。後に内閣総理大臣になった高橋是清も、少年時代にアメリカ合衆国ホームステイ先で騙されて年季奉公の契約書にサインしてしまい、売り飛ばされた経歴を持っている。

明治5年(1872年)には、横浜港に入ったペルー船籍船に乗せられていた苦力たちを、奴隷であるとして日本政府が解放して国際紛争となったマリア・ルス号事件が発生している。

明治の日本では、女性を騙して海外へ連れ出し売春させるという手口が多発していた[81][82][83][84][85]

外務省訓令第一号

警視庁 北海道庁 府県

近来不良の徒各地を徘徊し甘言を以て海外の事情に疎き婦女を誘惑し、遂に種々の方法に因りて海外に渡航せしめ、渡航の後は正業に就かしむることを為さず却て之を強迫して醜業を営まして、若くは多少の金銭を貪りて他人に交付するものあり。之が為めに海外に於て言ふに忍びざるの困難に陥る婦女追追増加し在外公館に於て救護を勉むと雖も或は遠隔の地に在りて其所在を知るに由なく困難に陥れる婦女も亦種々の障碍の為めに其事情を出訴すること能はざるもの多し。依て此等誘惑渡航の途を杜絶し且つ婦女をして妄りに渡航を企図せしめざる様取計ふべし

明治二十六年二月三日

外務大臣 陸奥宗光

内務大臣 華族井上馨

19世紀から20世紀初頭にかけて、日本の売春婦が中国、日本、韓国、シンガポール、インドなどのアジア各地で人身売買されるネットワークがあり、当時「黄色い奴隷売買」として知られていた[78]。「からゆきさん」とは、19世紀末から20世紀初頭にかけて、貧困にあえぐ農村から、東アジア、東南アジア、シベリア(ロシア極東)、満州、インドなどに人身売買され、中国人、ヨーロッパ人、東南アジア原住民などさまざまな人種の男性に売春婦として性的サービスを提供した日本人少女女性のことである。中国での日本人売春婦の経験は、日本人女性の山崎朋子の著書に書かれている[86][87][88][89][90][91][92][93][94][95][96]

朝鮮や中国の港では日本国民パスポートを要求していなかったことや、「からゆきさん」で稼いだお金が送金されることで日本経済に貢献していることを日本政府が認識していたことから、日本の少女たちは容易に海外で売買されていた[97][98]1919年には中国人が日本製品をボイコットしたことで、からゆきさんの収入になおさら頼るようになった[99]。明治日本の帝国主義の拡大に日本人娼婦が果たした役割については、学術的にも検討されている[100]

バイカル湖の東側に位置するロシア極東では、1860年代以降、日本人遊女商人がこの地域の日本人コミュニティの大半を占めていた[101]。黒海会(玄洋社)や黒龍会のような日本の国粋主義者たちは、ロシア極東や満州の日本人売春婦たちを「アマゾン軍」と美化して賞賛し、会員として登録した[102]。またウラジオストクイルクーツク周辺では、日本人娼婦による一定の任務や情報収集が行われていた[103]

ボルネオ島民、マレーシア人、中国人、日本人、フランス人、アメリカ人、イギリス人など、あらゆる人種の男たちがサンダカンの日本人娼婦たちを訪れた[79]

1872年頃から1940年頃まで、オランダ領東インド諸島の売春宿で多数の日本人売春婦(からゆきさん)が働いていた[104]


注釈

  1. ^ 貧しい白人入植者が、年季奉公の形で期限付きであっても奴隷同然の扱いを受けるのは一般的であり、概して海外植民地は不人気だった。
  2. ^ 平均13%、なお奴隷船は船員にとっても過酷な職場であり、船員の死亡率は奴隷と同程度の13-15%に達し、脱走も含めた船員の脱落率は20-25%に達している。
  3. ^ 一般に排水量が増えるほど必要とされる乗組員数は多くなる。
  4. ^ 毎年一隻に日本と中国の間での貿易事業の権利が与えられ、日本への航海のカピタン・マジョールの称号が与えられた[37]
  5. ^ 船倉内に可能な限り多くの奴隷を入れることを可能とした複層区画の奴隷船が登場するのは17世紀以降である。1570年セバスティアン1世 (ポルトガル王)は300トン以下、450トン以上の船の建造を禁止している[43][44]。ポルトガルは最盛期でさえも300隻以上の船を保有しておらず、1585年から1597年までにインドへ出航した66隻のうち無事に戻ってきたのは34隻だけであった[45]。16世紀から17世紀を通じてポルトガル―インド間を運行したナウ船の中でも最大級のものは載貨重量トン数600トン(現代の計算方法で換算すると排水量1100トン[46][47])にもなり乗組員、乗客、奴隷、護衛の兵士を含む400-450人を乗せることができたという[48]。排水量900トンのナウ船は77人の乗組員、18人の砲兵、317人の兵士、26の家族を乗船させることができた[49][注釈 3]。 日明間の航路については、貿易風の性質上、1年周期に限定されており、ナウ船1隻だけを使用することで利益を最大化した[50][注釈 4]。ポルトガルのナウ船は毎年1000〜2500ピコ(1ピコ=60キログラム)のを運んだという[51]。3000ピコは180トンの絹に相当するため船倉容積は250から400立方メートルと推定でき、それに武装、備品、乗組員、乗客、兵士、食料と水が加わっていたと推測される。硫黄、銀、海産物、刀、漆器等の日本特産品の入荷量によって乗船できる人数は上下したと考えられる。
  6. ^ 天正遣欧使節記』の目的をヴァリニャーノはポルトガル国王やローマ教皇に対して政治的、経済的援助を依頼するためと書き残している。『天正遣欧使節記』はポルトガルの奴隷貿易に関連して引用されることがあるが、イエズス会は1555年の最初期の奴隷取引からポルトガル商人を告発している[66]。イエズス会による抗議は1571年セバスティアン1世 (ポルトガル王) による日本人奴隷貿易禁止の勅許公布の原動力としても知られている[67]日本人奴隷の購入禁止令を根拠に奴隷取引を停止させようとした司教に従わないポルトガル商人が続出、非難の応酬が長期に渡り繰り返される事態が続いた[68][69][70]。ポルトガル国王やインド副王の命令に従わず法執行を拒否して騒動を起こすポルトガル商人や裁判官等も数多くいたという[71]。宣教師によって記述された情報は「ポルトガル王室への奴隷貿易廃止のロビー活動」[72]として政治的な性質を帯びており、宣教師側がポルトガル王室から政治的援助を受けるため、さらにポルトガル商人を批判して奴隷売買禁止令の執行実施を促すために生み出した虚構としての側面からも史料批判が必要と考えられる。
  7. ^ 豊臣秀吉は「人心鎮撫の策」として、遊女屋の営業を積極的に認め、京都に遊廓を造った。1585年に大坂三郷遊廓を許可。89年京都柳町遊里(新屋敷)=指定区域を遊里とした最初である。秀吉も遊びに行ったという。オールコックの『大君の都』によれば、「秀吉は…部下が故郷の妻のところに帰りたがっているのを知って、問題の制度(遊廓)をはじめたのである」やがて「その制度は各地風に望んで蔓延して伊勢の古市、奈良の木辻、播州の室、越後の寺泊、瀬波、出雲碕、その他、博多には「女膜閣」という唐韓人の遊女屋が出来、江島、下関、厳島、浜松、岡崎、その他全国に三百有余ヶ所の遊里が天下御免で大発展し、信濃国善光寺様の門前ですら道行く人の袖を引いていた。」(中村三郎『日本売春史』)のだという。

出典

  1. ^ プルタルコス, Life of Agesilaus, 7:6.
  2. ^ カール・ポランニー人間の経済 2 交易・貨幣および市場の出現』玉野井芳郎・中野忠訳、岩波書店〈岩波モダンクラシックス〉、2005年。
  3. ^ J・シュレ=カナール『黒アフリカ史』野沢協訳、理論社、1964年
  4. ^ 清水廣一郎『中世イタリア商人の世界』(平凡社ライブラリー、1993年)121頁
  5. ^ a b 岡倉登志『アフリカの歴史 侵略と抵抗の軌跡』明石書店 2001年
  6. ^ Bown, Stephen R., 1494: How a Family Feud in Medieval Spain Divided the World in Half, p. 73, Macmillan, 2012 ISBN 9780312616120
  7. ^ a b Raiswell, Richard. "Nicholas V, Papal Bulls of", The Historical Encyclopedia of World Slavery, Junius P. Rodriguez ed., ABC-CLIO, 1997 ISBN 9780874368857
  8. ^ Phipps, William E., Amazing Grace in John Newton, Mercer University Press, 2004 ISBN 9780865548688
  9. ^ Davenport p.27.
  10. ^ MacCaffrey, James. "Pope Callistus III." The Catholic Encyclopedia. Vol. 3. New York: Robert Appleton Company, 1908. 24 Jul. 2014
  11. ^ Hayes, Diana. 1998. "Reflections on Slavery". in Curran, Charles E. Change in Official Catholic Moral Teaching.
  12. ^ Hart, Jonathan Locke. 2003. Comparing Empires: European colonialism from Portuguese expansion to the Spanish–American War. Palgrave Macmillan. ISBN 1-4039-6188-3. p. 18.
  13. ^ Bourne, Edward Gaylord. 1903. The Philippine Islands, 1493-1803. The A.H. Clark company. p. 136.
  14. ^ Spate, Oskar H.K., "The Alexandrine Bulls and the Treaty of Tordesillas", Chap.2, The Spanish Lake
  15. ^ The Treaty of Tordesillas did not specify any longitude, thus writers have proposed several, beginning with Jaime Ferrer's 1495 opinion provided at the request of and to the Spanish king and queen.
  16. ^ Edward Gaylord Bourne, "Historical Introduction", in The Philippine Islands 1493–1803 by Emma Helen Blair.
  17. ^ Verzijl, Jan Hendrik Willem; W.P. Heere; J.P.S. Offerhaus (1979). International Law in Historical Perspective. Martinus Nijhoff. pp. 230–234, 237. ISBN 978-90-286-0158-1 . Online, Google Books entry
  18. ^ Thornberry 2002, p. 65.
  19. ^ カール・ポランニー『経済と文明-ダホメの経済人類学的分析』栗本慎一郎・端信行訳、筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2003年
  20. ^ a b 池本幸三他『近代世界と奴隷制 大西洋システムの中で』人文書院、1995年
  21. ^ 宮本正興・松田素二編『新書アフリカ史』第8版(講談社現代新書、2003年2月20日)p.365
  22. ^ 110人密輸「最後の奴隷船」米アラバマ州で残骸発見朝日新聞』朝刊2019年5月24日(国際面)2019年6月15日閲覧
  23. ^ ナン 2018, pp. 第5章.
  24. ^ Nunn, Wantchekon 2011.
  25. ^ 奴隷商人の像、反人種差別デモで倒される”. AFP (2020年6月8日). 2020年6月10日閲覧。
  26. ^ a b 三宅亨『倭寇と王直』、日本と東アジアのコミュニケーションの総合的研究、2012年
  27. ^ Worcester, Dean C. (1906). "The Non-Christian Tribes of Northern Luzon". The Philippine Journal of Science. National Science Development Board
  28. ^ Tōkyō Daigaku Shiryō Hensanjo (ed.). Nihon Kankei Kaigai Shiryō – Iezusu-kai Nihon Shokan, Genbun, 3 volumes. Tokyo: Tōkyō Daigaku Shiryō Hensanjo, 1990-2011. II, pp. 303-4.
  29. ^ Zhèng Shùn-gōng / Tei Shunkō (auth.), MIKAJIRI Hiroshi (ed.) Nihon Ikkan. [Unnamed place]:[Unnamed editor], 1937, pp. 482-3. KATAYAMA Harukata. “Nihon Ikkan no Kiso teki Kenkyū, Sono ichi.” In: Komazawa Tanki Daigaku Kenkyū Kiyō, 24, 15. 1997; KATAYAMA Harukata. “Nihon Ikkan no Kiso teki Kenkyū, Sono ni.” In: Komazawa Tanki Daigaku Kenkyū Kiyō, 24, 17. 1998; YONETANI Hitoshi. “Kōki Wakō kara Chōsen Shinryaku he.” In: IKE Susumu (ed.). Tenka Tōitsu to Chōsen Shinryaku. Tokyo: Yoshikawa Kōbunkan, 2003, pp. 146-7.
  30. ^ See YONETANI Hitoshi. “Kōki Wakō kara Chōsen Shinryaku he.” In: IKE Susumu (ed.). Tenka Tōitsu to Chōsen Shinryaku. Tokyo: Yoshikawa Kōbunkan, 2003, pp. 146-7.
  31. ^ 内藤雋輔『文禄・慶長の役における被虜人の研究』(東京大学出版会、1976年)p.226
  32. ^ 渡邊 大門『人身売買・奴隷・拉致の日本史』(2014年) p.175
  33. ^ 『多聞院日記 三十六』天正20年5月18日条
  34. ^ 渡邊大門『「朝鮮出兵」波乱に満ちた生け捕り奴隷の人生』2019年
  35. ^ 藤木久志『雑兵たちの戦場―中世の傭兵と奴隷狩り―』
  36. ^ Boxer, Charles Ralph (1968). Fidalgos on the Far-East 1550-1770. Oxford University Press. ISBN 9780196380742.p16
  37. ^ a b Boxer, Charles Ralph (1951). The Christian Century in Japan 1549–1650. University of California Press.
  38. ^ Boxer, Charles Ralph (1951). The Christian Century in Japan 1549–1650. University of California Press.
  39. ^ 藤木久志『雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り』朝日新聞社、1995年
  40. ^ 『建設コンサルタンツ協会 会報』Vol.256(2012年7月)pp.12-15 「特集 鹿児島」尚古集成館田村省三
  41. ^ In the Name of God: The Making of Global Christianity By Edmondo F. Lupieri, James Hooten, Amanda Kunder
  42. ^ https://www.japantimes.co.jp/culture/2013/05/26/books/book-reviews/the-rarely-if-ever-told-story-of-japanese-sold-as-slaves-by-portuguese-traders/
  43. ^ 外山卯三郎、南蛮船貿易史 (1943年), pp. 241-242
  44. ^ BARCELOS, CHRISTIANO SENNA, Construction of Naus in Lisbon and Goa for the India Route, Boletim da Sociedade de Geographia de Lisboa, 17a, série no1. 1898-99
  45. ^ Decline of the Portuguese naval power: A study based on Portuguese documents, Mathew, K.M. (The Portuguese, Indian Ocean and European Bridgeheads: 1580-1800) Festschrift in Honour of Prof. K.S. Mathew, Ed. By: Pius Malekandathil and Jamal Mohammed Fundacao Oriente, Lisbon. 2001, pp. 331-332
  46. ^ 外山卯三郎、南蛮船貿易史 (1943年), pp. 240-241
  47. ^ BARCELOS, CHRISTIANO SENNA, Construction of Naus in Lisbon and Goa for the India Route, Boletim da Sociedade de Geographia de Lisboa, 17a, série no1. 1898-99
  48. ^ Reconstructing the Nau from Lavanha’s Manuscript, T Vacas, N Fonseca, T Santos, F Castro, nautical research journal, 2010, p.25
  49. ^ Menéndez: Pedro Menéndez de Avilés, Captain General of the Ocean Sea Albert C. Manucy, published 1992 by Pineapple Press, Inc, p.100
  50. ^ 外山卯三郎、南蛮船貿易史 (1943年), pp. 245-246
  51. ^ 高瀬弘一郎、キリシタン時代の貿易と外交 ハードカバー、八木書店、2002/2/1、pp. 8-26
  52. ^ Peter C. Mancall, ed (2007). The Atlantic World and Virginia, 1550-1624 (illustrated ed.). UNC Press Books. p. 228. ISBN 080783159X 2014年2月2日閲覧
  53. ^ a b 牧英正『人身売買』(岩波新書、1971年10月20日)p.60
  54. ^ a b c 東京大学史料編纂所 『日本史の森をゆく - 史料が語るとっておきの42話』(中公新書、2014年12月19日)pp.77-78
  55. ^ BOXER, Charles R. Fidalgos in the Far East (1550-1771). The Hague: Martinus Nijhoff, 1948, p.234.
  56. ^ Tōkyō Daigaku Shiryō Hensanjo (ed.). Nihon Kankei Kaigai Shiryō –Iezusu-kai Nihon Shokan, Genbun, 3 volumes. Tokyo: Tōkyō Daigaku Shiryō Hensanjo, 1990-2011. I, p. 170
  57. ^ Juan Ruiz-de-Medina (ed.). Documentos del Japón, 2 Vol. Rome: Instituto Histórico de la Compañía de Jesús, 1990-1995. I, p.216
  58. ^ WESTBROOK, Raymond. “Vitae Necisque Potestas”. In: Historia: Zeitschrift für Alte Geschichte, Bd. 48,H. 2 (2nd quarter, 1999). Stuttgart: Franz Steiner Verlag, 1999, p. 203
  59. ^ MIZUKAMI Ikkyū. Chūsei no Shōen to Shakai. Tokyo: Yoshikawa Kōbunkan, 1969.
  60. ^ 奴隷貿易を糾弾した文を含む覚書『天正十五年六月十八日付覚』は昭和8年頃に伊勢神宮神宮文庫で写しが見つかり昭和14年に発表されており、偽書説がある。安野眞幸『「キリシタン禁令」の研究』。
  61. ^ 6月19日付けの文書には奴隷貿易に関する言及はない
  62. ^ 新異国叢書 イエズス会日本年報 下』pp.228-229
  63. ^ 安野眞幸『「キリシタン禁令」の研究』
  64. ^ a b c デ ・サンデ 1590 天正遣欧使節記 新異国叢書 5 (泉井久之助他共訳)雄松堂書店、1969年、pp.233-235
  65. ^ MATSUDA Kiichi. Tenshō Ken’ō Shisetsu. Tokyo: Chōbunsha, 1991, pp. 274-5
  66. ^ Slavery in Medieval Japan, Slavery in Medieval Japan, Thomas Nelson, Monumenta Nipponica, Vol. 59, No. 4 (Winter, 2004), pp. 463-492, "As early as 1555, complaints were made by the Church that Portuguese merchants were taking Japaense slave girls with them back to Portugal and living with them there in sin....Political disunity in Japan, however, together with the difficulty that the Portuguese Crown faced in enforcing its will in the distant Indies, the ready availability of human merchandise, and the profits to be made from the trade meant that the chances were negligible of such a ban actually being enforced. In 1603 and 1605, the citizens of Goa protested against the law, claiming that it was wrong to ban the traffic in slaves who had been legally bought. Eventually, in 1605, King Philip of Spain and Portugal issued a document that was a masterpiece of obfuscation intended both to pacify his critics in Goa demanding the right to take Japanese slaves and the Jesuits, who insisted that the practice be banned."
  67. ^ OKAMOTO Yoshitomo. Jūroku Seiki Nichiō Kōtsūshi no Kenkyū. Tokyo: Kōbunsō, 1936 (revised edition by Rokkō Shobō, 1942 and 1944, and reprint by Hara Shobō, 1969, 1974 and 1980). pp. 728-730
  68. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. pp. 496-497 "If that is the case, the king had then sent copies of the same order to India at least three times: in 1603, when Aires de Saldanha published it, in 1604, with Martim Afonso de Castro, and in 1605."
  69. ^ COSTA, João Paulo Oliveira e. O Cristianismo no Japão e o Episcopado de D. Luís Cerqueira. PhD thesis. Lisbon: Universidade Nova de Lisboa, 1998, p. 312. Sousa indicates the same letters, but he mistakenly attributed them to Filipe II, Filipe III’s father. See SOUSA, Lúcio de. Escravatura e Diáspora Japonesa nos séculos XVI e XVII. Braga: NICPRI, 2014, p. 298.
  70. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p. 493
  71. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. pp.494-504
  72. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. pp. 19-20
  73. ^ 『娯楽業者の群 : 社会研究』権田保之助著 実業之日本社、1923年
  74. ^ 唐権『海を越えた艶ごと一日中文化交流秘史』(新説社、2005年)p.121
  75. ^ 古賀十二郎『新訂丸山遊女と唐紅毛人』(長崎文献社、1968年)p.232
  76. ^ 小学館 2021a, p. 「からゆきさん」.
  77. ^ Sandakan Brothel No.8: Journey into the History of Lower-class Japanese Women By Tomoko Yamazaki, Karen F. Colligan-Taylor p.xv
  78. ^ a b Harald Fischer-Tiné (2003). “'White women degrading themselves to the lowest depths': European networks of prostitution and colonial anxieties in British India and Ceylon ca. 1880–1914”. Indian Economic and Social History Review 40 (2): 163–90 [175–81]. doi:10.1177/001946460304000202. 
  79. ^ a b Tomoko Yamazaki; Karen F. Colligan-Taylor (2015). Sandakan Brothel No.8: Journey into the History of Lower-class Japanese Women. Translated by Karen F. Colligan-Taylor. Routledge. p. 63. ISBN 978-1317460251. https://books.google.com/books?id=vlXrBgAAQBAJ&pg=PA63 
  80. ^ 太田淑子編『日本史小百科 キリシタン』(東京堂出版)pp.148-149
  81. ^ 1893年(明治26)外務省訓令「婦女ヲシテ妄リニ海外渡航ヲ企図セシメサル様注意セシム」”. 国立公文書館アジア歴史資料センター. 2021年9月29日閲覧。 “外務省訓令第一号 警視庁 北海道庁 府県 近来不良の徒各地を徘徊し甘言を以て海外の事情に疎き婦女を誘惑し、遂に種々の方法に因りて海外に渡航せしめ、渡航の後は正業に就かしむることを為さず却て之を強迫して醜業を営まして、若くは多少の金銭を貪りて他人に交付するものあり。之が為めに海外に於て言ふに忍びざるの困難に陥る婦女追追増加し在外公館に於て救護を勉むと雖も或は遠隔の地に在りて其所在を知るに由なく困難に陥れる婦女も亦種々の障碍の為めに其事情を出訴すること能はざるもの多し。依て此等誘惑渡航の途を杜絶し且つ婦女をして妄りに渡航を企図せしめざる様取計ふべし 明治二十六年二月三日 外務大臣陸奥宗光 内務大臣伯爵井上馨
  82. ^ (28)各府県知事ト在浦汐貿易事務館間婦女誘拐者ニ関シ直接通信ノ件 自明治三十六年八月 ※1903年(明治36年)在ウラジオストク貿易事務官から本国日本外務省への文書”. 国立公文書館アジア歴史資料センター. 2021年9月29日閲覧。 “本邦無智の少女を誘拐して当港に来航する悪漢之有り候趣は本月八日付公第二〇三号を以て申進置候処、当港年来の商況不振は正当なる商業者より其職業を奪ひ新渡航者に対しては従前の如く容易なる生活の方法を与へず、意思薄弱なる本邦男児をして漸次堕落の境域に導き、茲に無頼の徒と化し賎業者の手に依りて漸く其口を糊するもの多きに至り候は、慨はしき次第に之有り候。而して是等無頼漢唯一の生命は実に本邦無智の少女に懸るを以て、彼等は出来得る限り好餌を捉へんと欲し、百方訏(?)策を廻らし在本邦の誘拐者と気脈を通じて、或は汽船に依り或は日本形小漁船等に依り無智の少女を誘致し之を奪食する者日一日増加の勢之有り候。”
  83. ^ 長田秋濤 『新々赤毛布:露西亜朝鮮支那遠征奇談』文禄堂、1903年、196-198頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/761167/107。"醜業婦の出産地 西比利亜(シベリア)に渡航して行て醜業婦人と云ふ憐れむべき名称に甘んじて外国人に情を交はして、御髯の塵を払ふて居るもの共の出産地の戸籍を酔狂にも洗って見れば、大概は九州で其多数は九州の内で熊本県天草か、長崎県島原辺りの者で長崎市の内外も沢山ある、其の次は中国から中仙道に懸けてゞある…其事を聞き込んだる誘拐者が有らん限りの甘言を尽して之を誘ひ出し、自分の懐暖めの材料に做すと云ふ様な具合で、斯く一人連れ二人連れて行たのが今日の如く殖えたのである。"。 
  84. ^ 中村直吉, 押川春浪 『五大洲探険記. 第2巻 南洋印度奇観』博文館、1909年、13-14頁。"九州が醜業婦唯一の輸出地であることは、三歳の童子でも知ってる有名な事実だが、猶且此地方に出稼の醜業婦も、殆んど其の全部が九州出身で、長崎天草島原辺の者が多いやうである。  以前は誘拐の口実として種々の甘言を弄したので、無智の婦女はウカと夫に乗って、新嘉坡三界迄地獄の憂目を見に行くやうになったのであるが…"。 
  85. ^ (7)婦女誘拐者取締ニ関シ香港領事館ト内地地方庁間直接通信ノ件 自明治四十五年七月 ※1912年(明治45)在香港総領事から日本外務省への文書”. 国立公文書館アジア歴史資料センター. 2021年9月29日閲覧。 “香港は南清南洋地方に於ける婦女誘拐の策源地とも見るを得べく、従て本邦より無智の婦女を誘拐し来るもの、或は斯る目的を抱きて当地より帰国する悪漢之有り。当館は斯るものに対し厳重監視致候へ共、法規の制裁之に伴はざるを以て、如何とも致難候。…”
  86. ^ “日本侵華硏究”. Journal of Studies of Japanese Aggression Against China (日本侵華研究學會) (5–8): 64. (1991). https://books.google.com/books?id=m-81AQAAIAAJ. 
  87. ^ Tomoko Yamazaki; Karen F. Colligan-Taylor (2015). Sandakan Brothel No.8: Journey into the History of Lower-class Japanese Women: Journey into the History of Lower-class Japanese Women. Routledge. ISBN 978-1317460244. https://books.google.com/books?id=se7qBgAAQBAJ&pg=PT269 
  88. ^ Tomoko Yamazaki (1985). The story of Yamada Waka: from prostitute to feminist pioneer. Kodansha International. ISBN 978-0870117336. https://books.google.com/books?id=8VcFAQAAIAAJ 
  89. ^ Giving a Voice to the Voiceless: The Significance of Yamazaki Tomoko's Use of Oral History in "Sandakan Hachiban Shōkan". University of Sheffield, School of East Asian Studies. (1995). https://books.google.com/books?id=4h2AYgEACAAJ 
  90. ^ Tomoko Yamazaki (2005). Sandakan Bordell Nr. 8: Ein verdrängtes Kapitel japanischer Frauengeschichte. Translated by Yukiko Sumoto-Schwan, Friedrich B. Schwan. Iudicium Verlag. ISBN 978-3891294062. https://books.google.com/books?id=MCmMAAAAIAAJ 
  91. ^ Nihon no yōchien: yōji kyōiku no rekishi. Rironsha. (1965). https://books.google.com/books?id=qfACAAAAMAAJ&q=Tomoko+Yamazaki 
  92. ^ James Francis Warren (2003). Ah Ku and Karayuki-san: Prostitution in Singapore, 1870–1940. Singapore Series, Singapore: studies in society & history (illustrated ed.). NUS Press. p. 223. ISBN 9789971692674. https://books.google.com/books?id=Eo_Hav3qHYEC&pg=PA223isbn 
  93. ^ Tomoko Yamazaki (1974). サンダカンの墓. 文芸春秋. p. 223. https://books.google.com/books?id=2tXSAAAAMAAJ 
  94. ^ Tomoko Yamazaki (1975) (illustrated ed.). 文藝春秋. p. 223. https://books.google.com/books?id=4XoPAQAAMAAJ 
  95. ^ Sex, Power, and Slavery. Ohio University Press. (2014). p. 223. ISBN 978-0821444900. https://books.google.com/books?id=L7eVBQAAQBAJ&pg=PT223 
  96. ^ Ameyuki San no uta. Bungei Shunjû. (1978). https://books.google.com/books?id=bgyjQwAACAAJ 
  97. ^ James Francis Warren (2003). Ah Ku and Karayuki-san: Prostitution in Singapore, 1870–1940. Singapore Series, Singapore: studies in society & history. NUS Press. p. 83. ISBN 978-9971692674. https://books.google.com/books?id=Eo_Hav3qHYEC&pg=PA83 
  98. ^ Journal of the Malaysian Branch of the Royal Asiatic Society 62 (2): 57. (1989). https://books.google.com/books?id=slYaAQAAIAAJ. 
  99. ^ Tomoko Yamazaki; Karen F. Colligan-Taylor Karen F. Colligan-Taylor訳 (2015). Sandakan Brothel No.8: Journey into the History of Lower-class Japanese Women. Routledge. p. xxiv. ISBN 978-1317460251. https://books.google.com/books?id=vlXrBgAAQBAJ&pg=PR24 
  100. ^ James Boyd (August 2005). “A Forgotten 'Hero': Kawahara Misako and Japan's Informal Imperialism in Mongolia during the Meiji Period”. Intersections: Gender, History and Culture in the Asian Context (11). http://intersections.anu.edu.au/issue11/boyd.html 2015年7月21日閲覧。. 
  101. ^ Narangoa & Cribb 2003, p. 45.
  102. ^ Narangoa & Cribb 2003, p. 46.
  103. ^ Jamie Bisher (2006). White Terror: Cossack Warlords of the Trans-Siberian. Routledge. p. 59. ISBN 978-1135765958. https://books.google.com/books?id=Mg6RAgAAQBAJ&q=manchuria+praised+prostitutes&pg=PA59 2014年5月17日閲覧。 
  104. ^ Yamazaki & Colligan-Taylor 2015.






奴隷貿易と同じ種類の言葉


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「奴隷貿易」の関連用語

奴隷貿易のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



奴隷貿易のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの奴隷貿易 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2023 GRAS Group, Inc.RSS