両大戦間
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「レパルス (巡洋戦艦)」の記事における「両大戦間」の解説
1919年(大正8年)から1920年(大正9年)に第1次近代化改装がおこなわれ、防御装甲板を追加し、舷側装甲 229mm に強化された。レパルスは大西洋艦隊に編入された。ワシントン海軍軍縮条約により保有艦艇の整理がおこなわれ、イギリス海軍は巡洋戦艦3隻(フッド、レナウン、レパルス)で巡洋戦艦戦隊を編成する。 1923年(大正12年)、巡洋戦艦フッド (HMS Hood) が東まわりで世界一周航海を行うことになった(イギリス特務戦隊の世界一周)。巡洋戦艦レパルスと巡洋艦5隻はフッドを護衛し、1年にわたる世界巡行をおこなう。特務戦隊は南アフリカ、ザンジバル、セイロン、シンガポール、オーストラリア、ニュージーランド、太平洋諸島、アメリカ合衆国西海岸サンフランシスコに寄港し、パナマ運河を通ってジャマイカへ立ち寄り、最後にニューファンドランドを訪問した。特務戦隊の世界巡行パフォーマンスは成功し、各地で好印象を与える。またイギリス国民の士気高揚につながった。1925年(大正14年)、レパルスは英国皇太子の御召艦としてアフリカ大陸や南アメリカ大陸方面を巡航した。 1934年(昭和9年)から1936年(昭和11年)にかけて第2次近代化改装を実施されたが、姉妹艦レナウンや戦艦ウォースパイト (HMS Warspite) の様な外観の変更も伴った大々的な改装は行われず、小火器や細部の更新に留められた。レナウン級2隻は改装をおこなう機会が多く、レナウンは「リフィット(Refit)」、レパルスは「リペア(repair)」と渾名されたという。 1936年(昭和11年)6月、姉妹艦レナウンが大修理のため戦列を離れ、かわりにレパルスが地中海艦隊 (Mediterranean Fleet) に編入、10月にはフッドも地中海艦隊に加わった。1938年(昭和13年)、イギリス本国に戻った。この頃、イギリス国王(大英帝国皇帝)ジョージ6世とエリザベス妃が英連邦カナダを訪問することになり、その御召艦にレパルスが指定された(1939年、イギリス王室のカナダ訪問)。レパルスには、御召艦としての改造工事がおこなわれた。だが姉妹艦レナウンが大改造中だったこともあり反対意見が根強く、1939年(昭和14年)4月にチェンバレン首相は王室用ヨットに客船エンプレス・オブ・オーストラリア (RMS Empress of Australia) を指定した。5月16日、エンプレス・オブ・オーストラリアと護衛部隊(新鋭軽巡サウサンプトン、グラスゴー、巡洋戦艦レパルス)はポーツマスを出航し、本国艦隊(司令長官フォーブス提督、旗艦ネルソン)の各艦に見送られて大西洋に乗り出した。レパルスは3日間護衛したあと皇帝船隊と別れ、イギリス本土にもどった。
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両大戦間
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1914年から始まった第一次世界大戦時には、後の日独開戦時に国交断絶により閉鎖された館員は抑留されたものの、ドイツの敗北により終結し、戦後まもなく再開した。 その後、1933年に政権を獲得したナチ党のヨアヒム・フォン・リッベントロップ外相は、日本との連携を重視し、1936年には日独防共協定を結んだ上、第二次世界大戦に突入した後の1940年には、日独伊三国同盟を締結したことで、ますます関係が密接化していった。そのような中でヘルベルト・フォン・ディルクゼンやオイゲン・オットが駐日大使を務めた。 オット大使は「フランクフルター・ツァイトゥング」の特派員で、ナチ党員のリヒャルト・ゾルゲを私的(その後公的)顧問としていたが、1941年10月に所謂「ゾルゲ事件」でゾルゲが逮捕された後、1942年11月に大使を解任された。
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両大戦間
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第一次世界大戦時、アメリカ海軍の情報需要の大部分は、イギリス海軍の助けにより満たされた。海軍情報部は、1920年から独立部署となったが、外国の無線の傍受、暗号解読を非倫理的であるとみなした政府の意向のため、その職員数は削減された。この結果、1934年当時、海軍情報部は、20人の職員しか有していなかった。 海軍情報部の両大戦間における最も輝かしい成果は、日本の外交及び海軍の電報の傍受・解読であった。特に同部の努力のおかげで、1940年に導入された日本の「パープル」暗号が解読された。アメリカ政府は、駐ワシントン日本大使館のほぼ全ての電文を読むことができた。
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両大戦間
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「レナウン (巡洋戦艦)」の記事における「両大戦間」の解説
第一次世界大戦後にグランド・フリートが解散すると、レナウンは1919年(大正8年)4月に大西洋艦隊所属となった。航続力と壮麗で優美な外観が評価され、レナウンはエドワード皇太子(後のイギリス国王エドワード8世)の御召艦に抜擢された。艦後部の三連装副砲を1基撤去し、観閲台を設置した。最初の航海は、同年8月から南北アメリカ大陸(カナダ、アメリカ合衆国、中南米各国)訪問であった。 1920年(大正9年)3月、レナウンは再び英国皇太子の御召艦となった。今回の巡航は、パナマ運河を通過してアメリカ西海岸、ハワイ諸島、オーストラリアやニュージーランド訪問であった。1921年(大正10年)10月、レナウンは三度目の御召艦となり、エジプト、インド、日本などを訪問した。随伴艦は軽巡ダーバン(英語版) (HMS Durban) であった。 1922年(大正11年)4月12日、香港から日本列島まで球磨型軽巡洋艦に護衛された英艦隊(レナウン、ダーバン)は館山湾に到着して出迎えの戦艦山城および巡洋戦艦生駒と礼砲を交換し、続いて横浜港に到着した。英国皇太子のほか、ベルギー王族のチャールズ親王も士官候補生として同行していた。日本側は東伏見宮依仁親王(皇族軍人、海軍大将)を接伴役として出迎える。エドワード親王は御召列車で東京にむかった。日本のアパレルメーカーのレナウンの由来も、英国皇太子を乗せて訪日した本艦にちなんでいる。 日本海軍は栃内曽次郎連合艦隊司令長官以下、戦艦3隻(長門、陸奥、伊勢)や金剛型巡洋戦艦3隻、第一水雷戦隊などが出迎えた。レナウンとダーバンは4月26日まで横浜港に停泊し、長門型戦艦や伊勢などの迎接艦と共に過ごした。英艦乗組員はいくつかの行事に参加したり、日本艦の乗組員に案内されて各地を観光したり、お互いの艦を見学して過ごした。英国皇太子を含め王族関係者も、陸奥や長門を訪問している。同26日、レナウンは迎接艦と別れ、横浜を出発して西日本に向かった。その後、神戸港で英国皇太子が日程をこなすまで第三戦隊(木曾、大井)と共に待機した。 日本各地を観光・訪問した英国皇太子は、5月6日に神戸で汽船に乗船する。5月8日、厳島神社や安芸の宮島を観光した英国皇太子は軽巡洋艦木曾(供奉艦大井)に乗艦して呉市に移動し、海軍兵学校や呉海軍工廠を見学したあと、久しぶりに御召艦レナウンにもどった。9日、レナウンは鹿児島湾桜島近海に碇泊し、英国皇太子は艦載水雷艇で鹿児島市に上陸した。同9日夕刻、英国皇太子は東郷平八郎元帥に見送られ、レナウンと共に離日した。 ワシントン海軍軍縮条約により保有艦艇の整理がおこなわれると、イギリス海軍は本級2隻(レナウン、レパルス)と巡洋戦艦フッド (HMS Hood) で巡洋戦艦戦隊(英語版)を編成した。1923年から1926年にかけて第一次近代化改装を行い、砲撃と水雷に対処するため装甲を増設した結果、ライオン級巡洋戦艦に相当する装甲を手に入れた。 1935年(昭和10年)1月23日、スペイン沖合で巡洋戦艦戦隊のフッドとレナウンが衝突事故を起こす。巡洋戦艦戦隊司令官シドニー・ベイリー提督とソーブリッジ大佐(レナウン艦長)が軍法会議にかけられ、ソーブリッジ大佐に有罪判決が下された。 10年間に及ぶ活動の後、レナウンは再び改装作業に入る。戦艦ウォースパイト (HMS Warspite) に倣った大規模な改修が行われた。艦橋と前檣は前時代的な三脚檣から近代的な塔型艦橋に更新され、前檣は軽微な三脚檣として新造された。二本の煙突はそのままだが副砲は10.2cm3連装速射砲から11.4cm連装高角砲へと更新され、ポンポン砲も最新の8連装型に更新され対空火力が強化された。また、2番煙突の基部は水上機格納庫となり、後檣と格納庫の間に射出カタパルトが中央部甲板上に首尾線と直角に埋め込まれた。水上機と艦載艇は船体中央部甲板の左右に設置されたクレーンにより運用された。この改装作業は第二次世界大戦勃発の直後、1939年(昭和14年)9月にポーツマス海軍工廠にて終了した。しかし、上部構造物の更新や対空火器の更新に伴う重量増加により、本艦の浮力は船体に追加されたバルジをもってしても不足し、吃水が沈下した影響により凌波性と速力が改装前に比べ低下した。ただし、主機主缶の刷新により公試での速力は29.93ノットと微減に留まった。また、この第二次改装時にレナウンにはライトグレー(507C)の塗装がなされたが、この塗装は1940年にミディアムグレー(507B)に改められている。 以上のようにレナウン級2隻は頻繁に改装をおこなうので、レナウンは「リフィット(Refit)」、レパルスは「リペア(repair)」と渾名されたという。
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両大戦間
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第一次世界大戦後、作曲家たちはよりラディカルにロマン派音楽の否定にかかった。オリジナリティの否定は型の復活や過去の作品の引用・パッチワークとなり、ロマン的な感情の否定は機械的リズムの多用を生み、また演奏スタイルも変化した。こうした傾向は新即物主義や新古典主義と呼ばれる。一方、新ウィーン楽派は無調音楽の組織化のために十二音音楽へと進んだ。反面、部分的に近代的な語法や感覚を取り入れつつもロマン派音楽の延長線上にある音楽を書き続けた作曲家達も存在した。1930年代に入ると、ナチス・ドイツは前衛的芸術全般を「退廃芸術」と呼び弾圧し、ソ連ではスターリン体制が「社会主義リアリズム」を推進するなど、新しい音楽を追究する動きは苦境に立たされた。
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両大戦間
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「アレクサンドル・ヴァシレフスキー」の記事における「両大戦間」の解説
1919年に予備連隊の副小隊長として赤軍に入隊し、間も無く中隊長、大隊長となった。第11ペトログラード狙撃師団第429狙撃連隊副連隊長として、白衛ポーランド軍と戦う。その後第48狙撃師団長となる。 1931年5月に労農赤軍戦闘訓練局に移り、縦深戦闘戦術の立案に参加した。この頃ゲオルギー・ジューコフと知り合う。1931年から1936年に国防人民委員部参謀勤務学校を経て、沿ヴォルガ軍管区参謀部で勤務した。 1936年秋、創設されたばかりの参謀本部アカデミーに入校。その後参謀本部アカデミーの講座長を務め、1937年10月、参謀本部勤務に戻る。参謀本部では、ボリス・シャポシニコフの庇護を得て、ヨシフ・スターリンにも紹介された。1940年5月に参謀本部作戦局副局長となり、ドイツ派遣のソビエト連邦政府代表団に加わる。
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両大戦間
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「アレクセイ・アントーノフ」の記事における「両大戦間」の解説
1919年4月、赤軍に召集され、ロシア内戦に従軍。同年4月~6月、南部戦線第1モスクワ労働者師団参謀長補。1919年6月~1928年8月、第15インゼンスク狙撃師団第45旅団参謀長、同師団作戦班長となり、ウランゲリ指揮下のロシア南部軍との戦闘に参加。 1928年8月~1931年3月、M.V.フルンゼ名称労農赤軍軍事アカデミー基本(指揮)学部の聴講生となり、フランス語通訳の特技を得た。1931年3月~1934年10月、第46狙撃師団参謀長。1932年11月~1933年5月、フルンゼ軍事アカデミー作戦学部の聴講生。1934年10月、ウラル軍管区モギリョフ・ヤンポリスク強化地区師団参謀長、1935年8月、ハリコフ軍管区参謀部作戦課長、1936年10月、労農赤軍参謀本部アカデミー聴講生、1937年6月、モスクワ軍管区参謀長。 1938年6月、彼はフルンゼ軍事アカデミーの先任教官、後に共通戦術講座副長となった。1941年3月、キエフ特別軍管区参謀次長。
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