両大戦間とは? わかりやすく解説

両大戦間

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 04:49 UTC 版)

レパルス (巡洋戦艦)」の記事における「両大戦間」の解説

1919年大正8年)から1920年大正9年)に第1次近代化改装おこなわれ防御装甲板追加し舷側装甲 229mm に強化された。レパルス大西洋艦隊編入された。ワシントン海軍軍縮条約により保有艦艇整理おこなわれイギリス海軍巡洋戦艦3隻(フッドレナウンレパルス)で巡洋戦艦戦隊編成する1923年大正12年)、巡洋戦艦フッド (HMS Hood) が東まわりで世界一周航海を行うことになったイギリス特務戦隊世界一周)。巡洋戦艦レパルス巡洋艦5隻はフッド護衛し1年にわたる世界巡行をおこなう。特務戦隊南アフリカザンジバルセイロンシンガポールオーストラリアニュージーランド太平洋諸島アメリカ合衆国西海岸サンフランシスコ寄港しパナマ運河通ってジャマイカ立ち寄り最後にニューファンドランド訪問した特務戦隊世界巡行パフォーマンス成功し各地好印象与える。またイギリス国民士気高揚つながった1925年大正14年)、レパルス英国皇太子御召艦としてアフリカ大陸南アメリカ大陸方面巡航した1934年昭和9年)から1936年昭和11年)にかけて第2次近代化改装実施されたが、姉妹艦レナウン戦艦ウォースパイト (HMS Warspite) の様な外観変更伴った大々的改装行われず小火器細部更新留められた。レナウン級2隻は改装をおこなう機会多くレナウンは「リフィット(Refit)」、レパルスは「リペアrepair)」と渾名されたという。 1936年昭和11年6月姉妹艦レナウン大修理のため戦列離れかわりにレパルス地中海艦隊 (Mediterranean Fleet) に編入10月にはフッド地中海艦隊加わった1938年昭和13年)、イギリス本国戻ったこの頃イギリス国王大英帝国皇帝ジョージ6世エリザベス妃が英連邦カナダ訪問することになり、その御召艦にレパルス指定された(1939年イギリス王室カナダ訪問)。レパルスには、御召としての改造工事おこなわれた。だが姉妹艦レナウンが大改造中だったこともあり反対意見根強く1939年昭和14年4月チェンバレン首相王室ヨット客船エンプレス・オブ・オーストラリア (RMS Empress of Australia) を指定した5月16日、エンプレス・オブ・オーストラリアと護衛部隊(新鋭軽巡サウサンプトングラスゴー巡洋戦艦レパルス)はポーツマス出航し本国艦隊司令長官フォーブス提督旗艦ネルソン)の各艦に見送られ大西洋乗り出したレパルス3日護衛したあと皇帝船隊別れイギリス本土もどった

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両大戦間

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 21:07 UTC 版)

駐日ドイツ大使館」の記事における「両大戦間」の解説

1914年から始まった第一次世界大戦時には、後の日独開戦時国交断絶により閉鎖され館員抑留されたものの、ドイツ敗北により終結し戦後まもなく再開したその後1933年政権獲得したナチ党ヨアヒム・フォン・リッベントロップ外相は、日本との連携重視し1936年には日独防共協定結んだ上、第二次世界大戦突入した後の1940年には、日独伊三国同盟締結したことで、ますます関係が密接化していった。そのような中でヘルベルト・フォン・ディルクゼンやオイゲン・オット駐日大使務めたオット大使は「フランクフルター・ツァイトゥング」の特派員で、ナチ党員のリヒャルト・ゾルゲ私的その後公的顧問としていたが、1941年10月所謂ゾルゲ事件」でゾルゲ逮捕された後、1942年11月大使解任された。

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両大戦間

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/28 03:06 UTC 版)

アメリカ海軍情報局」の記事における「両大戦間」の解説

第一次世界大戦時アメリカ海軍情報需要大部分は、イギリス海軍助けにより満たされた。海軍情報部は、1920年から独立部署となったが、外国無線傍受暗号解読非倫理的であるとみなした政府意向のため、その職員数削減された。この結果1934年当時海軍情報部は、20人の職員しか有していなかった。 海軍情報部の両大戦間における最も輝かし成果は、日本の外交及び海軍電報傍受解読であった。特に同部の努力おかげで1940年導入され日本の「パープル暗号解読された。アメリカ政府は、駐ワシントン日本大使館のほぼ全ての電文を読むことができた。

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両大戦間

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 14:28 UTC 版)

レナウン (巡洋戦艦)」の記事における「両大戦間」の解説

第一次世界大戦後グランド・フリート解散すると、レナウン1919年大正8年4月大西洋艦隊所属となった航続力壮麗優美な外観評価されレナウンエドワード皇太子(後のイギリス国王エドワード8世)の御召艦に抜擢された。艦後部三連副砲を1基撤去し観閲台を設置した最初の航海は、同年8月から南北アメリカ大陸カナダアメリカ合衆国中南米各国訪問であった1920年大正9年3月レナウンは再び英国皇太子御召となった今回巡航は、パナマ運河通過してアメリカ西海岸ハワイ諸島オーストラリアニュージーランド訪問であった1921年大正10年10月レナウン三度目御召艦となり、エジプトインド日本など訪問した随伴艦は軽巡ダーバン英語版) (HMS Durban) であった1922年大正11年4月12日香港から日本列島まで球磨型軽巡洋艦護衛された英艦隊レナウンダーバン)は館山湾到着して出迎え戦艦山城および巡洋戦艦生駒礼砲交換し続いて横浜港到着した英国皇太子のほか、ベルギー王族のチャールズ親王士官候補生として同行していた。日本側は東伏見宮依仁親王皇族軍人海軍大将)を接伴役として出迎える。エドワード親王御召列車東京むかった日本アパレルメーカーレナウン由来も、英国皇太子乗せて訪日した本艦にちなんでいる。 日本海軍栃内曽次郎連合艦隊司令長官以下、戦艦3隻(長門陸奥伊勢)や金剛型巡洋戦艦3隻、第一水雷戦隊などが出迎えたレナウンダーバン4月26日まで横浜港停泊し長門型戦艦伊勢などの迎接と共に過ごした。英艦乗組員はいくつかの行事参加したり、日本艦の乗組員案内され各地観光したり、お互いの艦を見学して過ごした英国皇太子含め王族関係者も、陸奥長門訪問している。同26日レナウン迎接艦と別れ横浜出発して西日本向かったその後神戸港英国皇太子日程をこなすまで第三戦隊(木曾大井と共に待機した日本各地観光訪問した英国皇太子は、5月6日神戸汽船乗船する5月8日厳島神社安芸の宮島観光した英国皇太子軽巡洋艦木曾供奉大井)に乗艦して呉市移動し海軍兵学校呉海軍工廠見学したあと、久しぶり御召レナウンもどった9日レナウン鹿児島湾桜島近海碇泊し英国皇太子艦載水雷艇鹿児島市上陸した。同9日夕刻英国皇太子東郷平八郎元帥見送られレナウンと共に離日した。 ワシントン海軍軍縮条約により保有艦艇整理おこなわれると、イギリス海軍は本級2隻(レナウンレパルス)と巡洋戦艦フッド (HMS Hood) で巡洋戦艦戦隊英語版)を編成した1923年から1926年にかけて第一次近代化改装行い砲撃水雷対処するため装甲増設し結果ライオン級巡洋戦艦相当する装甲手に入れた1935年昭和10年1月23日スペイン沖合巡洋戦艦戦隊フッドレナウン衝突事故起こす巡洋戦艦戦隊司令官シドニー・ベイリー提督とソーブリッジ大佐レナウン艦長)が軍法会議かけられ、ソーブリッジ大佐有罪判決下された10年間に及ぶ活動の後、レナウンは再び改装作業に入る。戦艦ウォースパイト (HMS Warspite) に倣った大規模な改修が行われた。艦橋前檣前時代的三脚から近代的な塔型艦橋更新され前檣軽微な三脚として新造された。二本煙突そのままだが副砲は10.2cm3連装速射砲から11.4cm連装高角砲へと更新されポンポン砲最新の8連装型に更新され対空火力強化された。また、2番煙突基部水上機格納庫となり、後格納庫の間に射出カタパルト中央部甲板上に首尾線と直角に埋め込まれた。水上機艦載艇船体中央部甲板左右に設置されクレーンにより運用された。この改装作業第二次世界大戦勃発直後1939年昭和14年9月ポーツマス海軍工廠にて終了した。しかし、上部構造物の更新対空火器更新に伴う重量増加により、本艦浮力船体追加されバルジをもってしても不足し吃水沈下した影響により凌波性速力改装前比べ低下した。ただし、主機主缶刷新により公試での速力は29.93ノット微減に留まった。また、この第二次改装時にレナウンにはライトグレー(507C)の塗装なされたが、この塗装1940年にミディアムグレー(507B)に改められている。 以上のようにレナウン級2隻は頻繁に改装をおこなうので、レナウンは「リフィット(Refit)」、レパルスは「リペアrepair)」と渾名されたという。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 03:09 UTC 版)

音楽史」の記事における「両大戦間」の解説

第一次世界大戦後作曲家たちはよりラディカルロマン派音楽否定かかったオリジナリティ否定は型の復活過去の作品引用パッチワークとなり、ロマン的な感情否定機械的リズム多用を生み、また演奏スタイル変化したこうした傾向新即物主義新古典主義呼ばれる一方新ウィーン楽派無調音楽組織化のために十二音音楽へと進んだ反面部分的に近代的な語法感覚取り入れつつもロマン派音楽延長線上にある音楽書き続けた作曲家達も存在した1930年代に入ると、ナチス・ドイツ前衛的芸術全般を「退廃芸術」と呼び弾圧しソ連ではスターリン体制が「社会主義リアリズム」を推進するなど、新し音楽追究する動き苦境に立たされた。

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両大戦間

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/24 15:01 UTC 版)

アレクサンドル・ヴァシレフスキー」の記事における「両大戦間」の解説

1919年予備連隊の副小隊長として赤軍入隊し、間も無く中隊長大隊長となった。第11ペトログラード狙撃師団429狙撃連隊連隊長として、白衛ポーランド軍と戦う。その後48狙撃師団長となる。 1931年5月労農赤軍戦闘訓練局に移り、縦深戦闘戦術立案参加したこの頃ゲオルギー・ジューコフ知り合う1931年から1936年国防人民委員部参謀勤務学校経て、沿ヴォルガ軍管区参謀部勤務した1936年秋、創設されたばかり参謀本部アカデミー入校その後参謀本部アカデミー講座長を務め1937年10月参謀本部勤務に戻る。参謀本部では、ボリス・シャポシニコフ庇護得てヨシフ・スターリンにも紹介された。1940年5月参謀本部作戦副局長となり、ドイツ派遣ソビエト連邦政府代表団に加わる。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 17:01 UTC 版)

アレクセイ・アントーノフ」の記事における「両大戦間」の解説

1919年4月赤軍召集されロシア内戦従軍同年4月6月南部戦線第1モスクワ労働者師団参謀長補。1919年6月1928年8月、第15インゼンスク狙撃師団45旅団参謀長、同師団作戦班長となり、ウランゲリ指揮下のロシア南部軍との戦闘参加1928年8月1931年3月、M.V.フルンゼ名称労農赤軍軍事アカデミー基本指揮学部聴講生となり、フランス語通訳特技得た1931年3月1934年10月、第46狙撃師団参謀長1932年11月1933年5月フルンゼ軍事アカデミー作戦学部聴講生1934年10月ウラル軍管区モギリョフ・ヤンポリスク強化地区師団参謀長1935年8月ハリコフ軍管区参謀部作戦課長1936年10月労農赤軍参謀本部アカデミー聴講生1937年6月モスクワ軍管区参謀長1938年6月、彼はフルンゼ軍事アカデミー先任教官、後に共通戦術講座副長となった1941年3月キエフ別軍管区参謀次長

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