両大陸の英雄
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ヨークタウンの戦いはアメリカ独立戦争の最後の大規模戦闘であったが、イギリスは未だに主要な港湾都市を数か所保持していた。ラファイエットはそれらへの遠征を望んだが、ワシントンはフランスに追加の海軍支援を求めるのが有益だと考えた。大陸議会はラファイエットを、ヨーロッパにいるアメリカの使節、パリのベンジャミン・フランクリン、マドリードのジョン・ジェイ、ハーグのジョン・アダムズのアドバイザーに任命し、使節に対しては「ラファイエットとコミュニケーションを図り、全て彼に同意するよう指示した。またルイ16世に対し、ラファイエットの行動を称賛する公文書を送った。 ラファイエットは1781年12月18日にフランスへ向けボストンを出発。帰国すると英雄として歓迎され、1782年1月22日にはヴェルサイユ宮殿で歓待を受けた。娘の誕生に立ち会い、トマス・ジェファーソンの勧めでマリー=アントワネット・ヴァージニー(Marie-Antoinette Virginie)と名付けた。いくつもの階級を飛び越え、少将(英語版)に任命され、聖ルイ勲章(英語版)シュバリエを授与された。1782年、まだ公式な平和条約が締結されていなかったイギリス領西インドに対するフランス・スペインの遠征に取り組んだが、1783年に英米間でパリ条約が締結され遠征は中止された。ラファイエットはそれらの交渉に関わっていた。 ラファイエットはジェファーソンとともに、アメリカの対仏債務の削減を狙い、両国間の貿易協定締結に向け働いた。また、奴隷貿易の終了と解放黒人の権利の平等を提唱する、フランスの奴隷制度廃止グループ黒人の友協会(英語版)に加わった。ラファイエットは、奴隷所有者であるワシントンへ1783年の手紙で、奴隷を解放し彼らを小作農とすることを勧めた。ワシントンはラファイエットの考えに関心を示したが、奴隷解放は拒否した。一方ラファイエットは計画実現のため、 フランス領ギアナのプランテーションを購入した。 ラファイエットは1784年から1785年にかけアメリカを訪問し、訪れた全ての州で熱狂的な歓迎を受けた。8月17日にはマウント・バーノンにあるワシントンの農場も訪れた。ヴァージニア州議会下院(英語版)では演説を行い、「全人類の自由」を求め、奴隷解放を訴えた。また、ペンシルベニア州議会では連邦樹立への支援を訴えた。1778年に会ったことがある者もいる、イロコイ族との和平交渉に参加するためニューヨークのモホーク・バレー(英語版)を訪れた。ハーバード大学から名誉学位を、ボストン市からワシントンの肖像画を、ヴァージニア州からは胸像を贈られた。メリーランド州議会は彼と彼の男性相続人を「州の生まれながらの市民」とし称えた。そして1789年のアメリカ合衆国憲法批准後には、合衆国の生まれながらの市民とされた。後に、ラファイエットはフランスに市民権という概念が生まれる前にアメリカ市民になったことを自慢した。コネチカット、マサチューセッツ、ヴァージニア各州もラファイエットに市民権を与えた。 ラファイエットは、パリのブルボン通り(rue de Bourbon)にあった自邸(Hôtel de La Fayette)をアメリカ人の集合所とした。ベンジャミン・フランクリン、ジョン・ジェイ夫妻、ジョン・アダムズ、アビゲイル・アダムズは毎週月曜日にそこで会い、ラファイエットの家族や、クレモン=トネール伯爵(英語版)、 スタール夫人など自由主義者の貴族と食事をした。ラファイエットはフランス国内のアメリカ産品に対する貿易障壁を下げる活動を続け、フランクリンとジェファーソンがヨーロッパ諸国と友好・通商条約を結ぶのを手伝った。また、一世紀前のナントの勅令の廃止以来、フランスのユグノーが耐えてきた不当な仕打ちを正そうとした。 1785年にはプロイセンの軍事演習を見学するためシレジアへ行き、国王フリードリヒ2世に、続いて訪問したオーストリアでは皇帝ヨーゼフ2世にそれぞれ謁見するなど、ヨーロッパ諸国の君主や貴族と交友を深めた。1786年、公爵領への昇格を企図し、オーベルニュのランジャックを188,800リーブルで購入し領地を拡大したが、公爵昇進は実現しなかった。
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