犬養毅 生涯

犬養毅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/24 00:21 UTC 版)

生涯

生い立ち

犬養の生家

安政2年4月20日1855年6月4日)、備中国賀陽郡川入村(庭瀬村、庭瀬町、吉備町を経て現・岡山県岡山市北区川入)で大庄屋郡奉行を務めた犬飼源左衛門の次男として生まれる[1](のちに犬養と改姓[2])。父は水荘と称した備中松山藩板倉氏分家の庭瀬藩郷士である。元々、犬飼家は庭瀬藩から名字帯刀を許される家格であったという[3][1]

毅が13歳のときに父が死去。生家は現存しており、隣接して犬養木堂記念館が設けられている[注釈 2]

同藩の経世学者楠之蔚の下で漢籍を修めた後[3]1876年明治9年)に上京して慶應義塾に入学[4]。一時、共慣義塾(渡辺洪基浜尾新主宰の塾)に通い、また漢学塾・二松學舍では三島中洲漢学を学んだ。慶應義塾在学中の1877年3月に、『郵便報知新聞』(のちの『報知新聞』)の記者として西南戦争に従軍し、「戦地直報」の記事が話題を呼んだ[5]抜刀隊が「戊辰の仇!」と叫びながら突撃した事実は、一説には犬養の取材によるものとも言われている)。1880年(明治13年)、藤田茂吉とともに、慶應義塾卒業前に栗本鋤雲(郵便報知新聞社主筆)に誘われて記者となる[6]

明治10年代初めごろに豊川良平と東海社を興し、『東海経済新報』の中心として保護主義経済(保護貿易)を表明している(田口卯吉らの『東京経済雑誌』は自由主義を表明しており、論戦となった)。統計院権少書記官を経て、1882年(明治15年)、大隈重信が結成した立憲改進党に入党し、大同団結運動などで活躍する。また大隈のブレーンとして、東京専門学校の第1回議員にも選出されている。『日本及日本人』などで軍閥財閥批判を展開した。

代議士として

1890年(明治23年)の第1回衆議院議員総選挙で当選し、以後42年間で18回連続当選という、尾崎行雄に次ぐ記録を打ち立てる。

のちに中国地方出身議員とともに中国進歩党を結成する(ただし、立憲改進党とは統一会派を組んでいた)が、進歩党憲政本党の結成に参加、1898年(明治31年)の第1次大隈内閣では共和演説事件で辞任した尾崎の後を受けて文部大臣となった。

1913年大正2年)の第一次護憲運動の際は第3次桂内閣打倒に一役買い、尾崎行雄(咢堂)とともに「憲政の神様」と呼ばれた。しかし、当時所属していた立憲国民党は首相・桂太郎の切り崩し工作により大幅に勢力を削がれ、以後犬養は辛酸を舐めながら小政党を率いることとなった(立憲国民党はその後、革新倶楽部となる)。

犬養は政治以外にも、神戸中華同文学校横浜山手中華学校の名誉校長を務めるなどしていた。このころ、東亜同文会に所属した犬養は真の盟友である右翼の巨頭頭山満とともに世界的なアジア主義功労者となっており、ガンジーネルータゴール孫文らと並び称される存在であった。

1907年(明治40年)から頭山満とともに中国漫遊の途に就く。1911年(明治44年)に孫文らの辛亥革命援助のため中国に渡り、亡命中の孫文を荒尾にあった宮崎滔天の生家に匿う。漢詩にも秀でており、書道家としても優れた作品を残している。漢詩人の井土霊山は『木堂雑誌』に掲載された記事で犬養の手紙を「先づ上手」と賞している[注釈 3]

総理就任

犬養は第2次山本内閣逓信大臣を務めた後、第2次護憲運動の結果成立した加藤高明内閣(護憲三派内閣)においても逓信相を務めた[7]。しかし高齢で小政党を率いることに限界を感じた犬養は、革新倶楽部立憲政友会に吸収させ、逓信大臣や議員も辞めて引退した[8]。しかし辞職に伴う補選に岡山の支持者たちは勝手に犬養を立候補させた。再選された犬養は渋々承諾したものの、八ヶ岳の麓富士見高原の隠居所とするべく建てた山荘に引きこもっていた[9]

演説する犬養(政友会総裁のころ)

さらに1929年(昭和4年)9月に政友会総裁の田中義一が没した。後継をどの派閥から出しても党分裂の懸念があったことから、犬養を担ぎ出すことになった[10]

1929年、盟友の頭山満(左)や日本亡命中に庇護していた蔣介石(右)らと

1929年(昭和4年)10月、犬養は大政党・立憲政友会の総裁に選ばれた。 同12月8日日光東照宮板垣退助像建立のときには、序幕式で頭山満とともに祝辞を述べている[11][12]。(日光の板垣像建立も参照)

1931年(昭和6年)、濱口内閣が進めるロンドン海軍軍縮条約に反対して鳩山一郎とともに「統帥権の干犯である」と政府を攻撃した。犬養のこの行動は、統帥権が政治的手段になる事を軍部に教えた形となり、日本の民主主義政党政治が衰退する要因となった。当時の『東京朝日新聞』は、統帥権を政治利用した犬養らを非難しており「醜態さらした政友会は正道に還れ」という記事を書いている。なお、このときに犬養とともに統帥権問題を起こした鳩山一郎は、軍部を台頭させた人物として太平洋戦争後、GHQにより公職追放された。

民政党内閣は井上蔵相の金解禁により大恐慌を引き起こしており、同年に勃発した満洲事変をめぐって第2次若槻内閣は閣内不統一に陥り、総辞職した。元老西園寺公望は後継に犬養を推薦した[13]。内閣誕生直後の総選挙で、政友会は議席を大きく伸ばした。国民の期待を受け、犬養は高橋是清を蔵相に起用、高橋は金輸出再禁止や史上初の日銀の国際直接引き受けに踏み切り、デフレ脱却に成功し世界最速で大恐慌から脱出した。満洲問題でも、満洲に傀儡政権設立を求める軍部に対し、犬養は中国の宗主権を認めた上で、経済的には日中合弁の政権設立を主張した。犬養は萱野長知上海に送り、国民政府と交渉させた。しかし、萱野からの電報は内閣書記官長であった森恪が握り潰し、交渉は行き詰まった。犬養の構想は頓挫することとなった[14]

犬養は、軍部主導の満洲国の承認には消極的であったが、その一方で公債による膨大な軍事費を支出していた。この軍備拡張が、満洲事変など関東軍の大陸作戦に貢献したことから、陸軍との関係はそれほど悪くなかった。

統帥権干犯問題

TIME』の表紙を飾る(1931年12月28日号)

1930年、先の選挙に大敗北した犬養を総裁とする立憲政友会は、ロンドン軍縮条約を攻撃した。

政友会総裁は、「艦種の選択力量の決定は作戦計画に成りまったく専門的知識を俟つべきものである。 然して専門家の説を徴するにこれでは国防危険なりとの定論である。 果して然らば国家安危の係るところで、真に憂慮に堪えぬのである」と演説した。

この「専門家の意見」は海軍軍令部の意見であった。 このとき政友会はロンドン軍縮条約に不満の軍令部と通じて、財部彪海軍大臣を窮地に陥れて濱口内閣を倒閣しようとしていた。 政友会のこの野心を見抜いていた海軍軍令部長・加藤寛治大将、軍令部次長・末次信正らの軍令部首脳は、政友会を利用して批准を遮ろうとした。彼らは海軍軍縮会議からの脱退を目論んでいた。

これに対し浜口雄幸首相は、軍部の硬化を顧慮して正面から対決せず、手続き論で乗り切ろうとした。 しかし、議会のこの統帥権論議は「尽忠精神」に燃える海軍軍人に強い衝撃を与えた。 その下地にはワシントン軍縮条約など国内外による軍縮への反撥があった。 陸軍もまた大正十四年、宇垣一成陸軍大臣(第一次加藤高明内閣)の下で四個師団を廃し、2,000人あまりの将校が馘首された苦い経験があったため、海軍の態度に同調した[15]宇垣軍縮)。

上記のように第58帝国議会の論争で、政友会は軍部の主張を容認するかのような立場から、浜口内閣にゆさぶりをかけた。犬養は政友会総裁として代表質問に立ち、軍令部が反対する兵力量では国民は安心できないと政府に詰めよった。総務の鳩山一郎は、政府が軍令部長の意見に反し、またはこれを無視して回訓を決定したのは統帥権干犯のおそれがあると政府を非難・追及した。日露戦争以来、軍部は統帥権の独立を盾に、議会の統制を極力無視し、 軍の思うがままに国政を左右しようとする衝動を絶えず持っていた。

犬養は必ずしも反軍的な政治家ではなかったが、古参の政党政治家として軍縮などを主張してきた。その彼がこの軍の非立憲主義的衝動を知らないはずはなく、兵力量の決定という最も重要な国務を内閣の所管外であるかのように説いたのは、政党政治家の自殺行為に等しいものだった。この点、当初から親軍であった鳩山一郎や森恪が統帥権干犯を主張するのとは異なる重みがあった。

実際に、自らが首相になって軍縮をしようとした約2年後の1932年五・一五事件で統帥権独立を呼号する軍部によって、その生命を絶たれたのは歴史の皮肉だった[16]

暗殺

この事件の背景は、濱口内閣ロンドン海軍軍縮条約を締結したことにあった。その際に全権大使だったのが元総理の若槻禮次郎である。浜口内閣が崩壊すると、若槻が再び総理となり第2次若槻内閣が誕生した。そのため、本来なら若槻が暗殺対象であったが、その若槻は内閣をまとめきれず1年足らずで総理を辞任してしまい、青年将校の怒りの矛先は若槻ではなく政府そのものに向けられることになった。そもそも犬養は、軍縮条約に反対する軍部に同調して、統帥権干犯問題で浜口内閣を攻撃し、軍部に感謝されていた側の人間である。しかし、その政府の長に犬養が就任したため、政府襲撃事件を計画していた青年将校の標的になってしまった。

以下の犬養の言動は、犬養の孫である道子の随筆に従った[注釈 4]

1932年(昭和7年)5月15日は晴れた日曜日だった。犬養は総理公邸でくつろいでいた。この日、夫人は外出していた。

17時ごろ、護衛の巡査が走り込んできて暴漢侵入を告げ、逃げるよう促した。犬養が「逃げない、会おう」と応じたところに、海軍少尉服2人、陸軍士官候補生姿の3人からなる一団が乱入してきた。襲撃犯の一人は犬養を発見すると即座にピストルの引き金を引いた。

しかし不発に終わり、その様子を見た犬養は「撃つのはいつでも撃てる。あっちへ行って話を聞こう」と言い一団を日本間に案内した。日本間に着くと、彼らに煙草を勧めてから、「靴でも脱げや、話を聞こう」と促した。そこへ後続の4名が日本間に乱入、「問答無用、撃て」の叫びとともに全員が発砲した。

女中のテルらが駆けつけると、犬養は顔面に被弾して鼻から血を流しながらも意識ははっきりしており、縋りつく女中に「呼んで来い、いまの若いモン、話して聞かせることがある」と命じた。

18時40分、医師団は「体に入った弾丸は3発、背中に4発目がこすれてできた傷がある」と発表した。見舞いに来た家人に犬養は「九つのうち三つしか当らんようじゃ兵隊の訓練はダメだ」と嘆いたという。しかしその後は次第に衰弱し、23時26分に帰らぬ人となった[18]享年78(満76歳没)。

五・一五事件を伝える『朝日新聞

5月19日、犬養の葬儀が総理大臣官邸の大ホールでしめやかにとり行われた。たまたま来日中で官邸からほど近い帝国ホテルに滞在しており、事件当日には犬養の息子である健と会食していた喜劇王チャーリー・チャップリンから寄せられた「憂国の大宰相・犬養毅閣下の永眠を謹んで哀悼す」との弔電に驚く参列者も多かった。この葬儀の模様については、フランスから来た女性ジャーナリスト、アンドレ・ヴィオリスもその著『1932年の大日本帝国』で描写している[19]

墓所は港区青山霊園岡山市北区川入にある。


注釈

  1. ^ 毅は「つよき」とも称する(参照:近代日本人の肖像「犬養毅」国立国会図書館)。憲政記念館では「つよき」と表記する。また『犬養木堂伝』上巻(東洋経済新報社、昭和13年)口絵(ノンブルなし)の憲政国民党時代「自筆の履歴書」では「イヌカヒ ツヨキ」となっている。昭和3年の選挙ポスターに於いては「イヌカイ キ」としている。
  2. ^ この生家から採取された酵母菌を使って、板野酒造本店により日本酒「木堂酵母」が醸造されている。岡山の酒蔵と中国学園大「犬養毅の清酒」今年は生産3倍日経MJ』2020年3月2日(コンビニ・フード面)2020年3月8日閲覧。
  3. ^ 井土霊山「悪札の裁判―木堂先生の屑籠埋葬―」『木堂雑誌』(第二巻三月号、1925年)34-35頁。同記事には犬養が霊山に語ったという「近頃の大学生なぞの手紙は丸るで腐つた女郎の手紙とでも云つたやうなもので、字体から文句から自体ものになつて居らぬ、そんな手紙が来ると読むのが苦痛だから屑紙籠に葬って仕舞ふばかりだ」との言が見える。
  4. ^ 犬養道子は『花々と星々と』の「増補版あとがき」で「巷間にはさまざまに伝えられる祖父遭難時の言葉は、ここに記したものだけが正確であり、(母の証言、テルの証言)彼はそれ以外いわなかった」と記している[17]
  5. ^ ただし、この時点では列強諸国とのぶつかり合いはまだない。さらに蔣介石ら国民党の実力者たちは、事変後に至ってさえ満洲情勢には静観の姿勢を示し、まずは中国共産党殲滅を優先している。事変を激しく批判したのは中国共産党である。「国共内戦」も参照。
  6. ^ 犬飼健命は昔話「桃太郎」の犬のモデルになったとされる。
  7. ^ 源義仲清水太郎義高 ━ 清水左近義季 ━ 清水左衛門為頼 ━ 清水四郎左衛門義治 ━ 清水五郎左衛門治興 ━ 清水希一郎貞興 ━ 清水源太郎義信 ━ 清水慶之介義員 ━ 清水八郎高貞 ━ 清水源太兵衛貞氏 ━ 間野徳兵衛貞元 ━ 間野源左衛門貞宗 犬養(犬飼)家系図

出典

  1. ^ a b 小林 2009, p. 1.
  2. ^ 小林 2009, p. 2.
  3. ^ a b 平沼赳夫『犬養毅』(山陽図書出版 1975年)p.255
  4. ^ 小林 2009, pp. 6–7.
  5. ^ 小林 2009, pp. 7–12.
  6. ^ 岩淵辰雄『犬養毅』(時事通信社 1986年 ISBN 4788785633)p.15
  7. ^ 楠, 2000 & 三好 1994.
  8. ^ 楠 2000, pp. 199–200.
  9. ^ 楠 2000, pp. 200–201.
  10. ^ 楠 2000, p. 201; 三好 1994, p. 233.
  11. ^ 『土陽新聞』昭和4年(1929年12月10日号参照
  12. ^ 田辺昇吉『日光の板垣退助銅像』(所収『土佐史談』第161号)
  13. ^ 楠 2000, p. 203; 三好 1994, p. 234.
  14. ^ 楠 2000, pp. 203–204; 三好 1994, pp. 234–235.
  15. ^ 松本清張『昭和史発掘(7)』p.191
  16. ^ 中村政則『昭和の歴史(2)』p.188
  17. ^ 犬養道子『花々と星々と』(増補版)中央公論社、1974年、320頁。 
  18. ^ 犬養道子『花々と星々と』(増補版)中央公論社、1974年、304-315頁。 
  19. ^ アンドレ・ヴィオリス著『1932年の大日本帝国』、大橋尚泰訳、草思社、2020年、pp.216-217
  20. ^ 上法快男編、高山信武著『続・陸軍大学校』芙蓉書房、1978年
  21. ^ 竹内正浩『「家系図」と「お屋敷」で読み解く歴代総理大臣 昭和・平成篇』(実業之日本社、2017年7月25日)「犬養毅」の章
  22. ^ 官報』第4606号「叙任及辞令」1898年11月5日。
  23. ^ a b 『官報』号外「叙任及辞令」1932年5月16日。
  24. ^ 『官報』第565号「叙任及辞令」1914年6月19日。
  25. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1915年11月10日。
  26. ^ 『官報』第1218号「叙任及辞令」1916年8月21日。
  27. ^ 『官報』第2431号「授爵・叙任及辞令」1920年9月8日。
  28. ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。






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