犬養毅 犬養の死後

犬養毅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/24 00:21 UTC 版)

犬養の死後

犬養から端を発した統帥権干犯問題もさることながら、犬養の死と日本の対応も、日本の命運に大きな後遺症を遺し、その後「大正デモクラシー」と呼ばれることになった大正末期からの政党内閣制が続いていた昭和史の分水嶺となった。

事件の翌日に内閣は総辞職し、次の総理には軍人出身の斎藤実が就任した。総選挙で第1党となった政党の党首を総理に推すという慣行が破られ、議会では政友会が大多数を占めているにもかかわらず、民政党寄りの内閣が成立した。大正末期から続いた政党内閣制は衰えが始まり、軍人出身者が総理に就いたが、まだ議会は機能していた。しかし、これ以後は最後の存命している元老の西園寺公望(1940年没)や重臣会議の推す総理候補に大命が降下し、いわゆる「挙国一致内閣」が敗戦まで続くことになった。この時期は武官または軍部出身者が総理になることが多く、終戦まで文官の総理は広田弘毅近衛文麿平沼騏一郎だけである。

満洲事変は、斎藤内閣成立直後に締結された塘沽協定をもって終結を見た。

この後、日本は中国進出を進めて国際的孤立の道を進んでいった[注釈 5]

五・一五事件の犯人たちは軍法会議にかけられたものの世論の万単位の嘆願で軽い刑で済み、数年後に全員が恩赦で釈放され、彼らは満洲や中国北部で枢要な地位についた。現職総理を殺した反逆者やそれを焚きつけたテロリストらに死刑を適用しなかったことが、さらに大がかりな二・二六事件の遠因となった。なお、五・一五事件の海軍側軍法会議の判士長であった高須四郎は「彼らを死刑にすれば彼らが殉教者扱いされるから死刑を出すのはよくないと思った」などと軽い刑に処した理由を語った。

この事件の後、浜田国松斎藤隆夫などは反軍政治を訴えたが、大抵の政治家は反軍的な言動を差し控えるようになった。新聞社も、軍政志向への翼賛記事を書くようになり、政治家は秘密の私邸を買い求め、ついには無産政党までが「憎きブルジョワを人民と軍の統一戦線によって打倒する」などと言い始めた。後の翼賛選挙を非推薦で当選した政治家たちは、テロや暗殺にこそ遭わなかったが、軍部から選挙妨害を受け、さらに大政翼賛会に参加した諸政党からも言論弾圧を受けている。


注釈

  1. ^ 毅は「つよき」とも称する(参照:近代日本人の肖像「犬養毅」国立国会図書館)。憲政記念館では「つよき」と表記する。また『犬養木堂伝』上巻(東洋経済新報社、昭和13年)口絵(ノンブルなし)の憲政国民党時代「自筆の履歴書」では「イヌカヒ ツヨキ」となっている。昭和3年の選挙ポスターに於いては「イヌカイ キ」としている。
  2. ^ この生家から採取された酵母菌を使って、板野酒造本店により日本酒「木堂酵母」が醸造されている。岡山の酒蔵と中国学園大「犬養毅の清酒」今年は生産3倍日経MJ』2020年3月2日(コンビニ・フード面)2020年3月8日閲覧。
  3. ^ 井土霊山「悪札の裁判―木堂先生の屑籠埋葬―」『木堂雑誌』(第二巻三月号、1925年)34-35頁。同記事には犬養が霊山に語ったという「近頃の大学生なぞの手紙は丸るで腐つた女郎の手紙とでも云つたやうなもので、字体から文句から自体ものになつて居らぬ、そんな手紙が来ると読むのが苦痛だから屑紙籠に葬って仕舞ふばかりだ」との言が見える。
  4. ^ 犬養道子は『花々と星々と』の「増補版あとがき」で「巷間にはさまざまに伝えられる祖父遭難時の言葉は、ここに記したものだけが正確であり、(母の証言、テルの証言)彼はそれ以外いわなかった」と記している[17]
  5. ^ ただし、この時点では列強諸国とのぶつかり合いはまだない。さらに蔣介石ら国民党の実力者たちは、事変後に至ってさえ満洲情勢には静観の姿勢を示し、まずは中国共産党殲滅を優先している。事変を激しく批判したのは中国共産党である。「国共内戦」も参照。
  6. ^ 犬飼健命は昔話「桃太郎」の犬のモデルになったとされる。
  7. ^ 源義仲清水太郎義高 ━ 清水左近義季 ━ 清水左衛門為頼 ━ 清水四郎左衛門義治 ━ 清水五郎左衛門治興 ━ 清水希一郎貞興 ━ 清水源太郎義信 ━ 清水慶之介義員 ━ 清水八郎高貞 ━ 清水源太兵衛貞氏 ━ 間野徳兵衛貞元 ━ 間野源左衛門貞宗 犬養(犬飼)家系図

出典

  1. ^ a b 小林 2009, p. 1.
  2. ^ 小林 2009, p. 2.
  3. ^ a b 平沼赳夫『犬養毅』(山陽図書出版 1975年)p.255
  4. ^ 小林 2009, pp. 6–7.
  5. ^ 小林 2009, pp. 7–12.
  6. ^ 岩淵辰雄『犬養毅』(時事通信社 1986年 ISBN 4788785633)p.15
  7. ^ 楠, 2000 & 三好 1994.
  8. ^ 楠 2000, pp. 199–200.
  9. ^ 楠 2000, pp. 200–201.
  10. ^ 楠 2000, p. 201; 三好 1994, p. 233.
  11. ^ 『土陽新聞』昭和4年(1929年12月10日号参照
  12. ^ 田辺昇吉『日光の板垣退助銅像』(所収『土佐史談』第161号)
  13. ^ 楠 2000, p. 203; 三好 1994, p. 234.
  14. ^ 楠 2000, pp. 203–204; 三好 1994, pp. 234–235.
  15. ^ 松本清張『昭和史発掘(7)』p.191
  16. ^ 中村政則『昭和の歴史(2)』p.188
  17. ^ 犬養道子『花々と星々と』(増補版)中央公論社、1974年、320頁。 
  18. ^ 犬養道子『花々と星々と』(増補版)中央公論社、1974年、304-315頁。 
  19. ^ アンドレ・ヴィオリス著『1932年の大日本帝国』、大橋尚泰訳、草思社、2020年、pp.216-217
  20. ^ 上法快男編、高山信武著『続・陸軍大学校』芙蓉書房、1978年
  21. ^ 竹内正浩『「家系図」と「お屋敷」で読み解く歴代総理大臣 昭和・平成篇』(実業之日本社、2017年7月25日)「犬養毅」の章
  22. ^ 官報』第4606号「叙任及辞令」1898年11月5日。
  23. ^ a b 『官報』号外「叙任及辞令」1932年5月16日。
  24. ^ 『官報』第565号「叙任及辞令」1914年6月19日。
  25. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1915年11月10日。
  26. ^ 『官報』第1218号「叙任及辞令」1916年8月21日。
  27. ^ 『官報』第2431号「授爵・叙任及辞令」1920年9月8日。
  28. ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。






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