教育ニ関スル勅語 教育ニ関スル勅語の概要

教育ニ関スル勅語

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/21 14:32 UTC 版)

教育ニ関スル勅語(教育勅語)
文部省が諸学校に交付した勅語謄本
作成日1890年10月30日
所在地 大日本帝国
作成者井上毅元田永孚
署名者明治天皇

概要

「教育ニ関スル勅語」(教育勅語)は、教育基本方針を示す明治天皇勅語である。1890年(明治23年)10月30日に下され、翌31日付の官報などで公表された[2]大日本帝国憲法の発布直後、第一回帝国議会開会直前、という時代背景において、大日本帝国における国民道徳の基本と教育の根本理念を明示するために発布された[1]。公式文書においては「教育ニ関スル勅語」と表現するが、一般的には「教育勅語」と表現される。全文315字[1]

形式的には、1890年(明治23年)10月30日明治天皇が宮中で内閣総理大臣山縣有朋文部大臣芳川顕正に対して与えた勅語の体裁を採るが、実際は井上毅元田永孚らが起草したものである。その趣旨は、家族国家観による忠君愛国主義儒教道徳であり、教育の根本は皇祖皇宗の遺訓とされた。この教育勅語に基づき、忠君愛国を国民道徳とした学校教育が行われ、天皇制の精神的・道徳的支柱となった[1]

日本国憲法1947年昭和22年)5月3日に施行された後、衆議院参議院の双方において、「神話的国体観」「主権在君」を標榜する教育勅語は「民主平和国家」「主権在民」を標榜する日本国憲法に違反しているとされ、衆議院は憲法の最高法規性を規定した日本国憲法第98条に基づいて[3]、また参議院は日本国憲法の施行に先行する形で教育基本法が施行された結果、教育勅語は既に失効していることを明示的に確認し[4]、それぞれ「教育勅語等排除に関する決議」と「教育勅語等の失効確認に関する決議」を1948年6月19日に行った[3][4]

その後の日本国憲法下の日本国においては、詔勅に代わる国民国家の法規として日本国憲法自体が最高法規となり(第98条:憲法の最高法規性)、日本国憲法に沿った「教育基本法」などの各種法令が国民道徳の指導原理となった。

歴史

発表までの経緯

前史には教学聖旨の起草(1879年)や幼学綱要の頒布(1882年)等、自由民権運動・欧化政策に反対する天皇側近らの伝統主義的・儒教主義的な徳育強化運動がある[1]

発布までには様々な教育観が対立した。学制公布(1872年)当初は文明開化に向け、個人の「立身治産昌業」のための知識・技術習得が重視されたが、政府自由民権運動を危険視・直接弾圧し、また自由民権思想が再起せぬよう学校教育の統制に動き、天皇は1879年の「教学聖旨」で仁義を核とした徳育の根本化の重要性を説いた[1]。もっとも、教学聖旨は、儒教と読み書き算盤を柱とするあまりにも前近代的な内容であったため顧みられることはなかった[5]

教育勅語御下賜之図(安宅安五郎画)

1890年10月30日に発表された教育勅語は、山縣内閣の下で起草された。その直接の契機は、内閣総理大臣山縣有朋の影響下にある地方長官会議が、同年2月26日に「徳育涵養の義に付建議」を決議し、知識の伝授に偏る従来の学校教育を修正して、道徳心の育成も重視するように求めたことによる[1]。また、明治天皇が以前から道徳教育に大きな関心を寄せていたこともあり、文部大臣榎本武揚に対して道徳教育の基本方針を立てるよう命じた。ところが、榎本はこれを推進しなかったため更迭され、後任の文部大臣として山縣は腹心の芳川顕正を推薦した。これに対して、明治天皇は難色を示したが、山縣が自ら芳川を指導することを条件に天皇を説得、了承させた[5]。文部大臣に就任した芳川は、天皇から箴言編集の命を請けた。編集作業は初め中村正直委嘱され、法制局長官井上毅に移り、枢密顧問官元田永孚が協力する形で進行した[1]

中村原案について、山縣が井上毅内閣法制局長官に示して意見を求めたところ、井上は中村原案の宗教色・哲学色を理由に猛反対した。山縣は、政府の知恵袋とされていた井上の意見を重んじ、中村に代えて井上に起草を依頼した。井上は、中村原案を全く破棄し、「立憲主義に従えば君主は国民の良心の自由に干渉しない」ことを前提として、宗教色を排することを企図して原案を作成した。井上は自身の原案を提出した後、一度は教育勅語構想そのものに反対したが、山縣の教育勅語制定の意思が変わらないことを知り、自ら教育勅語起草に関わるようになった。この井上原案の段階で、後の教育勅語の内容はほぼ固まっている[5]

一方、天皇側近の儒学者である元田永孚は、以前から儒教に基づく道徳教育の必要性を明治天皇に進言しており、1879年(明治12年)には儒教色の色濃い教学聖旨を起草して、政府幹部に勅語の形で示していた。元田は、新たに道徳教育に関する勅語を起草するに際しても、儒教に基づく独自の案を作成していたが、井上原案に接するとこれに同調した。井上は元田に相談しながら語句や構成を練り、最終案を完成した[5]。内容は3段からなり、第1段では天皇の有徳と臣民忠誠が「国体ノ精華」にして「教育ノ淵源」であるとし、第2段では「父母ニ」から「天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」に至る14の徳目を示し、第3段ではこれらのが「皇祖皇宗ノ遺訓」に発し永遠に遵守されるべき普遍妥当性を持つとする[1]

1890年(明治23年)10月30日に発表された「教育ニ関スル勅語」は、国務に関わる法令・文書ではなく、天皇自身の言葉として扱われたため、天皇自身の署名だけが記され、国務大臣の署名は副署されなかった。井上毅は明治天皇が直接下賜する形式を主張したが容れられず、文部大臣を介して下賜する形がとられた[5]政治上の一般詔勅と区別するため大臣副署が無い[1]

発表後

発布後、10月31日文部省謄本を作り、全国学校に頒布し、その趣旨の貫徹に努めるよう訓令した。12月25日直轄学校にたいし天皇親署の勅語を下付した(訓令)。学校儀式などで読され、国民道徳の絶対的基準・教育活動の最高原理として圧倒的権威があり、これが修身科をはじめ諸教科規制した[1]。1890年11月3日帝国大学で奉読式がおこなわれ、東京工業学校・東京府尋常師範学校・東京府尋常中学校などでもおこなわれた[6]

教育勅語が発表された翌年の1891年(明治24年)には、第一高等中学校の嘱託教員であった内村鑑三が教育勅語に最敬礼をしなかったことへの批判(内村鑑三不敬事件)をきっかけに、各校に配布された教育勅語の写しを丁重に取り扱うよう命じる旨の訓令が発せられた。また、同年に定められた小学校祝日大祭日儀式規定(明治24年文部省令第4号)や、1900年(明治33年)に定められた小学校令施行規則(明治33年文部省令第14号)などにより、祝祭日に学校で行われる儀式では教育勅語を奉読(朗読)することなどが定められた。これ以後、教育勅語は教育の第一目標とされるようになった。紀元節(2月11日)、天長節(天皇誕生日)、明治節(11月3日)および1月1日(元日四方節)の四大節と呼ばれた祝祭日には、学校で儀式が行われ、全校生徒に向けて校長が教育勅語を厳粛に読み上げ、その写しは御真影天皇皇后の写真)とともに奉安殿に納められて、丁重に扱われた[5]。その趣旨は、明治維新以後の大日本帝国で[要出典]修身道徳教育の根本規範と捉えられた。

文部省英語に翻訳し、そのほかの言語にも続々と翻訳した[7]外地植民地)で施行された朝鮮教育令台湾教育令では、教育全般の規範ともされた[8]

その一方で、文部大臣西園寺公望は、教育勅語が余りにも国家中心主義に偏り過ぎて「国際社会における日本国民の役割」などに触れていないという点などを危ぶみ、いわゆる第二教育勅語を起草した(草稿は現在立命館大学が所蔵)。もっとも、この構想は西園寺の文部大臣退任により実現しなかった[9]

第二次世界大戦中

勅語発布50周年記念切手。1940年発行

いわゆる戦争期には極端に神聖化されたといわれる[1]。治安維持法体制下の1930年代に入ると、教育勅語は国民教育の思想的基礎として神聖化された。教育勅語の写しは、ほとんどの学校で「御真影」(天皇・皇后の写真)とともに奉安殿・奉安庫などと呼ばれる特別な場所に保管された。また、生徒に対しては教育勅語の全文を暗誦することも強く求められた[10]。特に戦争激化の中にあって、1938年(昭和13年)に国家総動員法(昭和13年法律第55号)が制定・施行されると、その体制を正当化するために利用された。そのため、教育勅語の本来の趣旨から乖離する形で軍国主義の教典として利用されるに至った。

第二次世界大戦後

1945年、ロバート・オールソン・バロウは『神国日本への挑戦 ―アメリカ占領下の日本再教育と天皇制―』中で教育勅語を“国家神道の「聖書」といってもよい”と評した。同年に日本が敗戦によって連合国軍の占領下に入ると、文部省は1946年(昭和21年)10月に「勅語及び詔書等の取扱いについて」と題する次官通牒により、教育勅語を教育の根本規範とみなすことをやめ[11]、さらに国民学校令施行規則を改正して、国民学校(小学校)で四大節の儀式で教育勅語を読み上げる規定を廃止した[12][注 1]。奉読と神格的扱いが禁止された[1]

第二次世界大戦後、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) は、教育勅語が神聖化されている点を特に問題視し、文部省は1946年(昭和21年)に奉読(朗読)と神聖的な取り扱いを行わないことを通達した。翌1947年(昭和22年)には教育基本法(旧教育基本法)が公布・施行されて教育の基本に据えられた。当初、日本国政府と国会は教育勅語を『教育基本法の基礎』として位置付けようとしたが、この方針は占領軍の認めるところとはならなかった。大日本帝国当時、国民が子弟に普通教育を施す義務(義務教育)、児童が教育を受ける権利(それも個々の状態に合わせ適切であること)に関する基本規定は存在しなかった。制定されたのは戦後に日本国憲法が出来てからのことである。

1948年(昭和23年)6月19日衆議院で「教育勅語等の排除に関する決議」、参議院で「教育勅語等の失効確認に関する決議」がそれぞれ決議されて、教育勅語は学校教育から排除あるいは失効確認され、謄本は回収・処分された[1]

1950年11月16日に行われた文教審議会(委員は吉田茂首相ほか)では、教育基準として教育勅語に代わる道徳綱領の必要性が議論されたが、作る必要はないとする意見が多数を占めた[13]

廃止後

教育勅語はその後、軍人の規律を説く軍人勅諭と同列におくことで軍事教育や軍国主義を彷彿とさせる傾向があるとされ、戦後日本においては公の場で教育勅語を聞くことはほぼ皆無となっている。時折、何らかの形で注目されて教育基本法の存在も踏まえた議論が起こるときもある(稲田朋美の発言など)。

その後、当時の文部大臣天野貞祐の教育勅語擁護発言(1950年)、首相田中角栄の勅語徳目普遍性発言(1974年)等、教育勅語の擁護は根強く、憲法改正を含む戦後天皇制再検討との関連で、一部政界財界人、学者文化人神社関係者等で、再評価が続いている[1]

現在

文部省・文部科学省の中央教育審議会、市区町村における教育関連の研究会・勉強会などでは、教育勅語が勅令ではなく法令としての性質を持たなかったこと、教育基本法が教育勅語を形骸化するものとなった一方で法令であること、教育勅語が過去に国会で排除・失効確認されていること、教育勅語の内容は道徳的な記述がなされているに過ぎないこと、等々をふまえ、教育基本法を論じる際には比較・参考の資料とすることもあり、一部では部分的な復活についての話題が出ることもある。「教育勅語について、排除・失効決議に関係なく、副読本や学校現場で活用できると思うがどうか」という質問について、文部科学省初等中等教育局長は「教育勅語を我が国の教育の唯一の根本理念であるとするような指導を行うことは不適切であるというふうに考えますが、教育勅語の中には今日でも通用するような内容も含まれておりまして、これらの点に着目して学校で活用するということは考えられる」と答弁している[14]。教育勅語を教育理念の中に取り入れ、生徒に暗唱させている私立学校もある[15]

本文

(原文は「―顕彰スルニ足ラン」までと日付と署名捺印のみが分けられ全てつながっている)

朕󠄁惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇󠄁ムルコト宏遠󠄁ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦󠄁相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博󠄁愛衆ニ及󠄁ホシ學ヲ修メ業ヲ習󠄁ヒ以テ智能ヲ啓󠄁發シ德器󠄁ヲ成就シ進󠄁テ公󠄁益󠄁ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵󠄁ヒ一旦緩󠄁急󠄁アレハ義勇󠄁公󠄁ニ奉シ以テ天壤無窮󠄁ノ皇運󠄁ヲ扶翼󠄂スヘシ是ノ如キハ獨リ朕󠄁カ忠良ノ臣民タルノミナラス又󠄂以テ爾祖󠄁先ノ遺󠄁風ヲ顯彰スルニ足ラン
斯ノ道󠄁ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺󠄁訓ニシテ子孫臣民ノ俱ニ遵󠄁守スヘキ所󠄁之ヲ古今ニ通󠄁シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕󠄁爾臣民ト俱ニ拳󠄁々服󠄁膺シテ咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶󠄂幾󠄁フ

明治二十三年十月三十日
御名御璽


注釈

  1. ^ 四大節に儀式を行うこと自体は廃止されず、単に「祝賀」することが定められた。なお、同令施行後に初めて行われた明治節(11月3日)の儀式は、同日が日本国憲法の公布日でもあったことから、新憲法の公布を祝賀する意義も付け加えられた。
  2. ^ 「祭政教一致・君臣一致・忠孝一本の至上原理を見る」という。同書p.235
  3. ^ その結果、原文とはかなり乖離するものになっている。執筆者は元自民党衆議院議員の佐々木盛雄という。かつて靖国神社遊就館明治神宮で配布されたが、現在ではなくなっている

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p "教育勅語" コトバンク、2020年8月24日閲覧。
  2. ^ 1890年(明治23年)10月31日付『官報』”. 国立国会図書館デジタル化資料. 2013年2月19日閲覧。
  3. ^ a b 第2回国会衆議院本会議第67号昭和23年6月19日009松本淳造
  4. ^ a b 教育勅語等の失効確認に関する決議(第2回国会):資料集”. 参議院. 2020年8月24日閲覧。
  5. ^ a b c d e f 山住正己 『教育勅語』朝日新聞社出版局、1980年。ISBN 4-02-259254-0OCLC 23327178https://www.worldcat.org/oclc/23327178 
  6. ^ 官報
  7. ^ 文部省 『漢英仏独教育勅語訳纂』文部省、1909年12月https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/899326/3 
  8. ^ 明治44年勅令第229号「朝鮮教育令」。大正8年勅令第1号「台湾教育令」。
  9. ^ 辻田真佐憲 『文部省の研究 「理想の日本人像」を求めた百五十年』文春新書、2017年。ISBN 978-4-16-661129-4OCLC 983777635https://www.worldcat.org/oclc/983777635 
  10. ^ 村上義人「手拭いの旗 暁の風に翻る」より、著者の在学していた開成中学校における実体験
  11. ^ 昭和21年10月8日文部事務次官通牒。
  12. ^ 『官報』1946年10月9日、文部省令第31号、NDLJP:2962435/1
  13. ^ 「道徳綱領、修身など不要 文教審議会の会見」『日本経済新聞』昭和25年11月17日3面
  14. ^ 第186回国会 参議院文教科学委員会 第9号 2014年4月8日
  15. ^ 開成幼稚園 幼児教育学園 (旧:南港さくら幼稚園幼児教育学園)” (2011年3月23日). 2011年3月23日閲覧。
  16. ^ 文部省『尋常小学修身書 巻六 児童用』1939年発行、近代教科書デジタルアーカイブ、ID:EG00016617。原文は歴史的仮名遣い・旧字体であるが、ここでは現代仮名遣い・新字体に改めた。
  17. ^ 那珂通世、秋山四郎 共著『教育勅語衍義』 (共益商社、1891年) p.3
  18. ^ 大宅壮一 『実録・天皇記』鱒書房、1952年。  はしがき。大宅壮一 『実録・天皇記』大和書房〈だいわ文庫〉、2007年、343頁。ISBN 978-4-479-30072-4  資料一。
  19. ^ 花曜社 『黄金律』1991年4月。ISBN 4-87346-077-8 
  20. ^ 高島俊男 『お言葉ですが… 第11巻』連合出版、2006年11月、164頁。 


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