憑依
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/30 10:14 UTC 版)
「憑依」という表現は、ドイツ語の Besessenheit や英語の (spirit) possession などの学術語を翻訳するために、昭和ごろ、特に第二次世界大戦後から用いられるようになったと推定されている(下記「訳語の歴史」を参照)。ファース(Firth, R)によれば、「(シャーマニズムにおける)憑依(憑霊)はトランスの一形態であり、通常ある人物に外在する霊がかれの行動を支配している証拠」と位置づけられる。脱魂(英: ecstasy もしくは soul loss)や憑依(英: possession)はトランス状態における接触・交通の型である[4]。
宗教学では「つきもの」を「ある種の霊力が憑依して人間の精神状態や運命に劇的な影響を与えるという信念」とする[5]。
訳語の歴史
人類学、宗教学、民俗学などの学術用語として用いられるようになった「憑依」あるいは「憑霊」という表現は、明らかにドイツ語の Besessenheit や英語の(spirit) possession などの翻訳語であり、欧米の学者らが使用する学術用語が日本の学界に輸入されたものである、と池上良正は指摘した[7]。1941年(昭和25年)のある学術文献[8]には「憑依」の語が登場した。一般化したのは第二次世界大戦後だろうと推定される[3][7]。
「憑依」という学術用語が用いられるようになって後は、この用語に関して、様々な理論化や類型化が行われてきた[3]。例えば、憑依という用語にとらわれすぎず、「つく」という言葉の幅広い含意も踏まえつつ憑霊現象をとらえなおした小松和彦の研究[9]などがある[3]。
「憑依」という用語と分類の恣意性
ただし、学術的な研究が進むにつれて、当初は明確な輪郭をもっているように思われた「憑依」という概念が、実は何が「憑依」で何が「憑依」でないか線引き自体が困難な問題として議論された。宗教学者ミルチャ・エリアーデは「脱魂」であると分類をもうけた。
こうした研究が進む中で、憑依を評価する側の価値判断や政治的判断が色濃く反映され、バイアスがかかってしまっている、やっかいな概念である、ということが次第に認識されるようになってきた[10][3]。
例えば大和言葉の「つく」という言葉ならば、「今日はツイている」のように幸運などの良い意味で用いることができる。ところが「憑依」は否定的な表現である[3]。英語の be obsessed や be possessed などは否定的な表現であり、「憑依」も否定的に用いられる。[3]。現実に起きていることはほぼ類似の現象であっても、書き手の側の価値判断や政治的判断によってそれを呼ぶ表現が恣意的に選ばれてしまい、別の解釈をもたらすと指摘する研究者もいる[3]。
このような箇所が翻訳される場合は肯定的に表現され、「憑依」を暗示するような訳語は使われず、このような箇所は「憑依」に分類されてこなかったのである[3]。一方、同じく聖書には次のようなくだりがある[3]。
イエスが向こう岸のガダラ人の地に着かれると、悪霊に取りつかれた者がふたり、墓場から出てきてイエスのところにやって来た。二人は非常に凶暴で(中略)、突然叫んだ。「神の子、かまわないでくれ。まだ時ではないのに、ここにきて、我々を苦しめるのか」。はるか離れたところで多くの豚の群れがえさをあさっていた。そこで悪霊たちはイエスに願って言った。「もし我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」。イエスが「行け」と言われると、悪霊どもは二人から出て、豚の中に入った。すると豚の群れは崖から海へなだれこみ、水の中で死んだ。豚飼いたちは逃げ出し、町に行き、悪霊に取りつかれた者のことなど一切を知らせた。(マタイによる福音書 8.28-33)[3]
これなどは「取りつかれた」などの「憑依」を暗示する用語・訳語が選ばれ、そういう位置づけになっている[3]。
一方、沖縄のユタと呼ばれる人がカミダーリィの時期を回想した体験談に次のようなものがある[3]。
この体験談を聖書の引用と比較してみると、明らかにイエス自身の事跡を示したマタイによる福音書3.16以下のくだりと酷似している[3]。まともに判断すれば、マタイによる福音書3.16のくだりと同じ位置づけで研究されてもよさそうなはずのものなのだが、ところが学術の世界では「ユタと言えばカミダーリィ(神がかり)。だからシャーマン。巫者。だから“憑依”される人物だ」といったような、冷静に検討すれば、あまり正しいとは言えない理屈で分類されるようなことが行われてきたのである[3]。
キリスト教徒のなかには、「キリスト教徒以外の異教徒はすべてサタンによって欺かれている」などと言う人もおり[3]、キリスト教の外にあるイタコやユタなどは“悪霊に憑かれた者”に分類し、それに対して、キリスト教の中にある聖霊に関しては「憑かれる」とは表現しないという指摘もある[3]。すなわち、こうした表現や用語の選定段階には、聖書の編者たちやキリスト教徒たちの価値判断や解釈が埋め込まれてしまっているのである。学者らがこうしたキリスト教徒の「信仰」自体を批判する筋合いにはないが[3]、問題なのは、こうしたキリスト教信仰による分類法が、「学術研究」とされてきたものの中にまでも実は深く入り込み、研究領域が恣意的に分けられてしまうようなことが行われてきたことにある[3][11]。つまり、「ついた」「神がかった」などという表現があると「憑依」や「シャーマニズム」に分類して、宗教人類学や宗教民俗学の守備範囲だとし研究されたのに、「(イエス・キリストは)天が開け神の御霊が鳩のように自分の上に下ってくるのをご覧になった」という記述や「高僧に仏の示現があった」「見仏の体験を得た」という記述は、別扱いになってしまい、キリスト教研究や仏教研究の領域で行われる、ということが平然と行われてきてしまったのである[3]。
古代ギリシャ
哲学
『饗宴』などのプラトンの著作によれば、神が擬人化される以前から存在したダイモーンという神性の存在が、神と人間のあいだを結合するために憑依という形で個人の人生に介入してくるという[12]。プラトンの師であるソクラテスは頻繁に強度のトランス状態となり、人知を超えたな叡知を授けられたという。プラトンの弁によれば、ソクラテスは「ぼくはいわゆる人間の理知によって語っているではないのです。むしろ、なにか神霊のような、自分ではないある高いものが、ぼくをつき動かしているのです」と語っている[12]。アルキビアデスは、ソクラテスの話を聞くと誰もが強い衝撃を与えられ、神がかった状態に陥ったと述べている。
『パイドロス』の中では「神に憑かれて得られる予言の力を用いて、まさに来ようとしている運命に備えるための、正しい道を教えた人たち」と、前4世紀当時のギリシャの憑依現象について紹介している。『ティマイオス』では、憑依された人が口にする予言や詩の内容を、客観的な視点から理性を用いて的確に判断し解釈する人が傍らに必要であることを述べている。
弁証法やイデア論など、ソクラテスからアリストテレスに連なる哲学には、しばしば非人間的な超越存在が根底に現れる。その起点には、人間の知性を越えたダイモーンの介入による神充状態を理想とし、自らの知や活動の源泉としたソクラテスの教えがある[12]。
- ^ a b 『広辞苑』第四版、第五版
- ^ a b c d e f g 羽仁礼『超常現象大事典』成甲書房、2001年、76頁。ISBN 978-4880861159。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 池上良正「第五章」『死者の救済史: 供養と憑依の宗教学』角川学芸出版、2003年、157-194頁。ISBN 4047033545。
- ^ 『宗教学辞典』249頁 - 250頁、東京大学出版会 (1973/01) ISBN 9784130100274
- ^ 『宗教学辞典』555頁、東京大学出版会 (1973/01) ISBN 9784130100274
- ^ 日本テレビ「謎の憑依現象を追え!」(ウェイバックマシン)
- ^ a b p.159
- ^ 秋葉降『朝鮮巫俗の現地研究』
- ^ 『憑霊信仰論』伝統と現代社、1982年
- ^ 川村邦光『憑依の視座』青弓社、1997年
- ^ p.167
- ^ a b c 古東哲明『現代思想としてのギリシア哲学』 <講談社選書メチエ> 講談社 1998年 ISBN 4062581272 pp.136-148.
- ^ Jeffers, Ann (1996). Magic and Divination in Ancient Palestine and Syria. Brill. p. 181
- ^ 山崎ランサム和彦『平和の神の勝利』プレイズ出版 p.47
- ^ 『聖書語句大辞典』教文館
- ^ オルダス・ハックスリーが『ルーダンの悪魔』 - The Devils of Loudun (1952)を書き、これを原作にケン・ラッセル監督が『肉体の悪魔』(1971)として映画化。同じ事件はヤロスワフ・イヴァシュキェヴィッチ『尼僧ヨアンナ』(岩波文庫)などにも描かれていて、イェジー・カヴァレロヴィチが同名の映画化(1961)。
- ^ ミシェル・ド・セルトー『ルーダンの憑依』みすず書房 2008。原書はMichel de CERTEAU, LA POSSESSION DE L’OUDUN. PARIS, JULLIARD, 1970.
- ^ 『宗教学辞典』419頁、東京大学出版会 (1973/01) ISBN 9784130100274
- ^ 塩月亮子「憑依を肯定する社会 : 沖縄の精神医療史とシャーマニズム(憑依の近代とポリティクス,自由テーマパネル,<特集>第六十四回学術大会紀要)」『宗教研究』第79巻第4号、日本宗教学会、2006年、1035-1036頁、doi:10.20716/rsjars.79.4_1035、ISSN 0387-3293、NAID 110004752051。
- ^ 塩月亮子 同上
- ^ 定本柳田國男集9巻 247頁
- ^ 笛「ヒシギ」洗足学園音楽大学伝統音楽デジタルライブラリー
- ^ 会報『さえずり』平成24年2号(平成24年10月13日発行)祭り囃子が聞こえる新潟県リコーダー教育研究会
- ^ 定本柳田國男集10巻 137頁
- ^ 小松和彦『憑霊信仰論』30頁 伝統と現代社 1982年
- ^ 『魔の系譜』『谷川健一著作集1』三一書房。29頁 書中で引用される石塚尊俊の『日本の憑き物』では犬神の一種として吸葛(スヒカツラ)が出る。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o リン・ピクネット『超常現象の事典』青土社、1994年、220-222頁。ISBN 978-4791753079。
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