ウィキペディア日本語版
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/17 09:01 UTC 版)
ウィキペディア日本語版 | |
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ウィキペディア日本語版のロゴ | |
URL | |
ja | |
タイプ | インターネット百科事典 |
分野 | 限定なし |
使用言語 | 日本語 |
項目数 | 1,412,162項目 |
閲覧 | 無料 |
登録 | 任意 |
著作権 | GFDL および CC BY-SA |
運営元 | ウィキメディア財団 |
資金 | 寄付[注釈 1] |
営利性 | 非営利 |
設立 | 2001年5月20日 |
設立者 | (未詳) |
現代表 | (設立当初から不在) |
執筆者 | 不特定多数の執筆者 |
編集委員 | なし |
査読制度 | なし |
現状 | 運営中・記事数増加中(特別:新しいページを参照) |
概要
2007年の日経BPによる当時の管理者へのインタビュー記事によれば、ウィキペディア日本語版は2001年5月頃に発足したものの、当初は編集者も少数で、ローマ字表記の項目が約23項目とコンテンツもほとんどなく、認知もほとんどされていなかったが[1]、2002年夏のシステムの更新によって日本語表記にも対応するようになり[1]、徐々に日本人のユーザーも増大していった、と述べられている。
2005年以降はWeb 2.0ブームの一端として大手マスコミにも取り上げられるようになり、インターネットに接する一般市民にも認知されていった。現在では検索エンジン最適化により、Google検索を初めとする検索エンジンで記事が上位に表示されることもあって、認知度や閲覧数も高い。一方で、記事の内容やサイトの運営などに関し、様々な課題も指摘されている[2][3]。
主な特徴
他の言語版に比べた特徴を述べる。
規模
2019年10月現在、純記事数では、13位の規模のウィキペディアであり(主要語にラテン文字が用いられないウィキペディアとしては、ロシア語版に次いで2位)、最大の英語版の約5分の1の規模である。2005年上期までは英語版、ドイツ語版に次いで純記事数3位であったが、その後は他言語版に抜かれている。なお、内部リンク数は、3位を維持し続けている(後述)。
法的制限
日本の著作権法は、アメリカ以外の多くの国と同様に、著作権の行使が制限される範囲を個別に定めており、ウィキペディア日本語版では個別に定められた範囲外で著作権のある画像を使用することが禁止されている。このため、英語版ウィキペディアでは、包括的にフェアユースを認める米国法に基づいて画像が使われているのに、日本語版には一切ないという現象がよくみられる。
参加者
日本語版の大きな特徴の一つは、編集をする利用者のうち登録せずにいる利用者の比率が高いことである[4]。2007年12月時点で、編集回数の約40%はログインしない利用者(IPユーザー)によるものであり、これは主要10言語のウィキペディアのうちで最も高い割合となった(右グラフ参照)。2010年にはIPユーザーの比率が5割近くとなっている[5]。
アンドリュー・リーは、他言語版およびウィキメディアプロジェクト群全体の国際コミュニティとウィキペディア日本語版コミュニティとの間の連携が強まっていない原因の一つが、この登録済み利用者の少なさだと指摘している[4]。たとえばウィキメディアの国際会議、第1回ウィキマニア(2005年)において、ウィキペディア日本語版からの会議出席者はわずか2名であり、より編集者数の少ないオランダ語版や中国語版からの出席者数にも及ばなかった[4]。
記事新設数と編集回数
1日当たりの記事新設数は日本語版設置後順調に伸び続けたが、2007年3月の469件をピークに減少傾向にあり、2008年5月の1日当たりの記事新設数はピーク時と比較して49%減の240件にとどまった[6]。2009年1月に一時300件台を回復したが再び減少に転じ、2008年5月以降は一部240件台もあるものの、概ね200件台後半で推移していたが、2010年5月以降は再び減少傾向に転じ、2011年5月以降は概ね150件前後で推移している。2012年8月にはピーク時以降で最小となる131件を記録した[7]。2013年4月現在の日本語版の記事新設数は143件であり、内部リンク数上位10言語版(英語版、ドイツ語版、日本語版、スペイン語版、フランス語版、ポーランド語版、イタリア語版、ロシア語版、ポルトガル語版、オランダ語版)の中で内部リンク数ではドイツ語版に次ぐ3位につけているものの、記事新設数では10位である[6]。
1か月間に5回以上編集した利用者は2007年1月以降4,000名から5,000名の間で推移し、2008年1月に最高の4,989名に達した[8]。月に100回以上編集した利用者は2007年1月以降概ね400名から500名程度で推移し、2007年3月に最高の566名に達した[9]。しかし、どちらも2008年1月前後を境に緩やかに減少傾向にある[10]。特に、月に100回以上編集した利用者の減少の方が著しい。2013年4月に5回以上編集した利用者は4,164名[8]、100回以上編集した利用者は352名で[9]、内部リンク数上位10言語版のうち、5回以上編集した利用者数は5位[8]、100回以上編集した利用者は7位である[9]。
1か月当たりの総編集回数は、2007年3月と10月の53万1千回をピークに活動中の利用者の減少と同様に緩やかに減少しており、2008年1月から5年2ヶ月に渡り50万回に達した月がなかったが、2013年3月に一時的に55万9千回に達した。しかし、翌月には再び50万回を切っている[注釈 3]。全体的な傾向としては、年々減少を続け、特に2013年5月からは2006年3月以来保っていた月間編集30万回を割り込むようになった[11]。さらに2013年8月以降には25万回台の月が何度も現れるようになった[11]。これらのことから、日本語版は一時的な活動活発化が見られることはあるものの、全体的な活動低下傾向が長く続いていることが分かる。
また記事の増加が著しかった時期によく見られた1人の利用者が速いペースで次々に記事を編集していく行為は少しずつ鳴りを潜めていっていることが窺える。
連携
言語間リンクが同規模の他言語版に比べると少ない[13]。2009年8月時点の日本語版の言語間リンクは320万リンクであり、内部リンク数上位10言語版のうち最下位である[13]。2008年10月20日現在の記事のダンプデータによると、言語間リンクを一つも有しない記事は約28万件あり、当時の総記事数約51万件[注釈 4]の半数以上に上る[注釈 5]。これは日本特有の事象を挙げた記事が多いのも一つの要因である。また、日本語がラテン文字を使わない言語であるために、他言語版の執筆者が日本語版の記事名および記事本体をまったく読めず、他プロジェクトからの支援を受けにくいという事情もある。
運営
他言語版の上位10のうち7言語版は、その言語の主な使用国内に個別の協会(ウィキメディア財団#ローカル・チャプター)を持つのに対し、日本語を主に使用する日本国内には国別協会がない。管理者陣は単なるユーザーグループで、多くが匿名である(→Wikipedia:日本語版ユーザーグループ)。
歴史
- 2001年 1月15日 -(英語版ウィキペディア発足)
- 2001年 5月20日 - ウィキペディア日本語版発足(日本語の文字が使用できなかったため当初はローマ字表記)
- 2002年 9月 1日 - 日本語版で日本語の文字(かな・漢字等)が利用可能に
- 2003年 9月 9日 - 1万項目達成
- 2004年 5月26日 - 5万項目達成
- 2004年メインページデザイン変更 9月 1日 - 第1回
- 2004年 9月 9日 - 「第2回Webクリエーションアウォード 特別賞」を受賞。
- 2005年 2月11日 - 10万項目達成
- 2006年 4月 9日 - 20万項目達成
- 2006年12月Web of the Year 2006」総合大賞およびウェブ情報源部門1位を受賞。 6日 - 「
- 2006年12月15日 - 30万項目達成
- 2007年メインページデザイン変更 3月24日 - 第2回
- 2007年 8月10日 - 40万項目達成
- 2007年12月21日 - 「Web of the Year 2007」総合大賞およびウェブ情報源部門1位を受賞。
- 2008年 6月25日 - 50万項目達成
- 2009年GFDLに加えてCC BY-SAでも利用可能に) 6月15日 - ライセンス変更(従来の
- 2009年 7月 8日 - 60万項目達成
- 2010年 6月10日 - ロゴおよびインターフェイスの変更
- 2010年 8月31日 - 70万項目達成(日本時間9月1日)
- 2012年 4月 3日 - 80万項目達成
- 2013年メインページデザイン変更 2月 1日 - 第3回
- 2014年 3月14日 - 90万項目達成(日本時間3月15日)
- 2016年 1月19日 - 100万項目達成
- 2018年 3月22日 - 110万項目達成
- 2020年 4月13日 - 120万項目達成
- 2021年11月12日 - 130万項目達成
- 2024年 1月15日 - 140万項目達成
発足当時
発足当時の日本語版[14]。
英語版をベースに始まったウィキペディアが多言語化に乗り出したのは2001年の5月頃である[15]。2001年5月20日に日本語版を含む13の非英語版サイトが発足した[16]。
発足当初のURLには http://ja.wikipedia.com/ と http://nihongo.wikipedia.com/ が使われていた形跡がある。
当初のメインページは irrashaimase! で始まる全文ローマ字だった。残されている履歴情報から、3月から4月にかけてすでに数度の編集を経ていることが分かる[17]。このため、英語版内部などで開発された可能性も考えられる。
最初の項目は 「日本語の音素論」という意味だと思われるNihongo No Funimekusu と題されたもので、日本語の音素(英: Phonemics → Funimekusu)が仮名と必ずしも一対一対応の関係にないことを示した記事だが、これもローマ字で書かれていた。投稿者は RoseParks(英語版の初期メンバーの一人)で、投稿時期は4月初め頃の間、つまりウェブサイトがテスト段階にあった頃と思われる[注釈 6]。
12月下旬時点での総ページ数は、2ページに留まった。
その当時使われていたウィキソフトは日本語に対応していなかったので、記事はローマ字表記で書かれ、項目も23個ほどであった[1]。
日本語化
2002年9月1日に従来のウィキソフトが改良され、日本語に対応できるようになる[1]。日本人の利用者が徐々に集まり、記事が充実していく。この時期のファイルは現在の日本語版の履歴からも遡れる。国の一覧[18]やエスペラント[19]、各々の最古版などから見て取れるように、日本語の母語話者ではない利用者の投稿による項目も多かった(履歴で辿れる最古のメインページでは「ウィキペディア」が「ウィキピディア」になっているなど)。主な分野は日本文化・言語・世界地理・プログラミング関連。
同月の内にインターフェースの日本語訳が始まり、年末の時点でWikipedia:編集の仕方(正確にはその前身に当たるWikipedia:How does one edit a page)やGNU FDLが訳された。
12月中旬の時点で登録利用者数は10人程度、総項目数は10件程度であった。
参加者の急激な増加
2003年初頭、インターネットの大きな日本語サイトで相次いでウィキペディアが取り上げられた。これにより数次の急激な利用者増が起こり、ウィキペディア日本語版は、他の言語のウィキペディアにもなかった急激な成長を見せることとなる。
Wired News 日本語版での掲載
2003年1月31日、Wired News 日本語版でウィキペディア(英語版)についての記事が掲載された[20]。これはウィキペディアが日本のマスメディアで紹介された最初の例であると思われる。
これを境に多数の参加者を迎え、Wikipedia:名前空間・Wikipedia:ウィキペディアへようこそ・Wikipedia:基本方針とガイドラインなどプロジェクト関連の文書が本格的に翻訳または作成された。
漫画家・都道府県など、項目数が増えた。証券取引などを巡る本格的な項目も出現した。
スラッシュドット現象
2003年2月12日にウィキペディア日本語版は1,000ページを達成した。英語版が奇しくもちょうど2年前に1,000ページを達成している。
1,000ページ達成を受け、コンピュータ関係の有名電子掲示板であるスラッシュドットジャパンにウィキペディア日本語版が紹介された[21]。これにより、この数日後参加者は倍増することとなり、日本においてもウィキペディアにおいてスラッシュドット現象が発生した。
この結果、様々な分野の項目が増加した。主なものとして、物理学・生物学・情報工学・文学・音楽・ゲームソフト・漫画・タレント関連などが挙げられる。
また、執筆者にはいわゆるサブカルチャー(殊にアニメや声優・日本の鉄道・軍事・コンピュータゲーム及びゲームソフト)関連分野でのトリヴィアを誇る者、即ちおたくが多く、半ばまとめサイトやデータブック(人物については紳士録、名鑑、言動録)と化した項目があるのも日本語版の大きな特徴であるが、それは、この「スラッシュドット現象」から始まったともいえる。
さらなる成長
ウィキペディアは数度のサーバ故障によるサイトダウンを経験している。2003年4月5日18時08分から4月6日17時37分(いずれも日本時間)の間、ウィキペディアのサーバが故障し、書き込みができなくなった。サーバダウンは後に、2003年12月・2004年6月、および2005年2月にも起こっている。
しかし大勢においては、このような事故はウィキペディアの拡大には影響を及ぼしていない。10000項目を超える頃から、ウィキペディア日本語版はほぼ同じペースの成長率で項目を増大させていき、数ある小さなプロジェクトの一つから、ウィキペディアプロジェクト有数の規模を誇る代表的なプロジェクトへと発展していった。
大規模DBクラッシュ
2003年12月、ウィキペディアを提供していた3台のサーバが故障した。このため数日全言語および各種姉妹プロジェクトを含めて停止していた。利用者の一部は寄付を行ってサーバ購入費用を提供した。
2004年6月7日未明、ウィキペディアなどのデータベースサーバが故障し、翌日12時前まで全言語および各種姉妹プロジェクトを含めて停止していた。このクラッシュの直前のごく一部の編集だけが失われた状態で復活している。
2005年2月22日の日本時間7時15分、データセンターの内部で停電が起こり、全言語版が停止した。当日中に読み出し専用状態に回復したものの、書き込みが可能となったのは翌23日の日本時間7時25分頃だった。
成長の軌跡
2003年3月23日にはウィキペディア日本語版の項目数は5,000項目を達成し、さらに6月15日には10,000項目を達成した。1,000項目から10,000項目までの増加に要した日数は4か月と3日間であり、これは英語版よりも早いペースであった。2003年の間に項目数は72項目から24,242項目へと約337倍に増加した。2003年12月にはウィキペディア日本語版の項目数がフランス語版ウィキペディアを抜き、英語版、ドイツ語版に次いで全言語版中3位になった。
2004年5月26日2時21分頃には項目数が50,000を達成した。
また9月29日11時3分(日本時間)頃には項目数が75,000を達成した。
ある時期から、Yahoo!ニュースなどからのリンクによる利用者が急増し、日本語版の特定の項目が多く参照される現象がしばしば観測されるようになる。これは英語を使用する開発者などからは、yahoo spike(ヤフーによる急激な利用者増加)などともいわれた。
2004年末、ウィキペディア日本語版の登録者は、1万5千弱に達した。利用者は前年比600%を超えるなどと報道された。2004年中に項目数は24,242項目から92,181項目へと約3.80倍に増加した。
2005年2月11日17時52分(日本時間)頃には項目数が10万を達成し、同年10月24日には項目数が15万を達成した。2005年中に項目数は92,181項目から168,874項目へと約83.2%増加した。しかし2005年7月には項目数がフランス語版に再び抜かれ4位になった。
2006年4月9日には項目数が20万を達成、8月28日には25万を達成し、12月15日には30万を達成した。2006年中に項目数は168,874項目から307,134項目へと約81.9%増加した。2006年1月には項目数がポーランド語版に抜かれ5位になった。
2007年8月10日には項目数は40万を達成した。2007年中に記事数は307,134項目から452,023項目へと約47.2%増加した。
2006年に入ってから1か月あたりの増加のペースが1万項目を超える月が出始め、2006年10月頃には約1万7千項目と過去最多を記録する。その前後より激しく増減しながら、2008年始めまでは1か月に1万項目を超えていたが、これがピークとなり、2008年4月には一時約6千項目に落ち込む。
一時急減した増加のペースはやや回復し、2008年末には8千項目台まで持ち直す。しかし、その後はゆっくり減少する傾向となり、2010年末には再び約6千項目となる。
2009年7月8日には項目数が60万を達成した。12月には項目数がイタリア語版に抜かれ6位になった。
2010年8月31日(日本時間9月1日)には項目数が70万を達成した。
2011年3月には項目数がスペイン語版に抜かれ7位に、9月には項目数がロシア語版に抜かれ8位に、10月には項目数がオランダ語版に抜かれ9位になった。
1か月あたりの増加のペースも、2011年4月に5千項目を割り、2012年まで4千項目から5千項目程度で推移する。
2012年3月から自身の投稿履歴を確認するページにおいて、変更字数が緑色で表示される機能が加わった。
2012年4月26日より過去の版との比較機能において、凡例がリニューアルされた。この頃、項目数がポーランド語版、ワライ語版、セブアノ語版に抜かれ12位となった。
2013年以降、少なくとも2015年末までは、増加のペースは1か月あたり4千項目前後で安定して推移している。
2013年9月、項目数がベトナム語版に抜かれ13位になった。11月、再びベトナム語版を抜き、12位になった。
外部からの反応・評価
2003年 - 2004年
2004年9月には、日本広告主協会(現:「日本アドバタイザーズ協会」)からWeb クリエーション・アウォード特別賞を贈呈された[22]。これは本来個人を対象とする賞であったため、日本語版の初期に活動していたフランス人利用者、ギヨーム・ブランシャー(利用者名Aoineko)が代表で賞を受け取った。
2005年 - 2006年
日本語版が15万項目のマイルストーンを超える前後から、「Web 2.0」の一翼としてウィキペディアが取材・紹介されることが増えた。特に、gooが「goo辞書」の一環に「goo Wikipedia記事検索」を組み込んだ頃から「Web 2.0」という文脈以外の「検索手段」としても認知が広がった。2006年8月に朝日新聞1-2面の特集コラムで詳しく紹介されたことも、ウィキペディアの名前を一般に広めることとなった。また、ウィキペディアをSEOに利用することを推奨するような部分がある記事がインプレスのImpress Watchに掲載されたが、その後「不適切な記述」として推奨するような部分が削除された[23][注釈 7]。
利用者投票によってベストサイトを決めるイベント「Web of the Year 2005」では、ノミネートされた検索情報部門の上位18位にも入らず、話題賞でも12位であった。翌年の「Web of the Year 2006」において、「年間総合大賞」、「ウェブ情報源部門賞」(1位)をダブル受賞し[24]、内外の関係者を驚かせた。
デジタルメディア協会主催の第11回 AMD Award '05でウィキペディア日本語版がBest Writer賞を受賞した[25]。
2007年 - 2008年
「Web of the Year 2007」で前年に続き「年間総合大賞」、「知識・情報源部門賞」(1位)を同時受賞した[26]。2007年になるとウェブ上の情報源として一層広く認知され、大きな驚きは引き起こさなかった。
こうしてウィキペディアも社会に市民権を得てきており、またインターネット社会の特質も一般に認知されるようになった。所詮ウェブページは信憑性のないただの雑文だという捉え方と、自由表現と集合知の中に真実があるという意見とが揺れ動いている。
2007年5月20日の読売新聞のコラム「方位計」(4頁、政治面)は憲法学者石川健治の紹介として石川健治の項目にある「現代憲法学の鬼才、20年に1人の逸材」を研究者間の評価として引用した。
2008年7月13日には朝日新聞の書評欄で小杉泰・京都大学教授が、『情報化社会のプライバシー研究』(青柳武彦著、NTT出版)と併せて、日本で初めてウィキペディアを正面から論じたとされる『ウィキペディアで何が起こっているのか』(山本まさき・吉田雄介著、九天社、のちオーム社)を取り上げ、同書の「ウィキペディアのシステムは悪意の投稿を防げないため信頼性は危うい」旨の見解を紹介した。
2008年11月9日、東金市の項目に未解決事件の犯行の告白と犯行予告が書き込まれる[27]。
2008年11月19日、毎日新聞社が当日2時30分更新の毎日jpおよび当日の毎日新聞朝刊にて、前日に起きた元厚生事務次官吉原健二の妻への傷害事件(元厚生事務次官宅連続襲撃事件)の発生6時間前に、ウィキペディアの社会保険庁長官という項目に犯行を示唆する書き込みがあったと報道する[28]。この報道は各新聞社の当日の朝刊を紹介する各テレビ局の朝のテレビ番組[注釈 8]でも取り上げられた。しかしこの報道は毎日新聞の記者が協定世界時で記された編集履歴を日本時間だと誤解したことが故の誤報であった[注釈 9]。
2009年 - 2010年
2009年4月26日12時34分、大友皇子即位説の項目に、草彅剛に対する捜査への抗議として皇太子徳仁親王、Yahoo! JAPAN、赤坂警察署の警察官に対する犯行予告が書き込まれる[29]。
2011年 - 2012年
2012年4月、前年に痴漢容疑で逮捕され、のちに不起訴となったフリーライターが誤認逮捕の実名報道で人権を侵害されたとして、日弁連などに人権侵害救済申立書を提出した。警告を求める対象は報道各社の他、ウィキペディア日本語版の本人の項目にもその内容が加筆されていた事から「ウィキペディアの運営会社」も含まれている[30]。
2013年 - 2014年
「ウィキペディアタウン」という取り組みが2013年の2月に横浜で、7月に二子玉川で始まった。これはウィキペディア日本語版編集者の有志と、地元の保存会など地域ボランティアたちが現地でミーティングを行い、文化財や観光名所などの地域情報を共同してウィキペディアに掲載し、そうしたウィキペディア上での情報提供を通じて地域の活性化に繋げようという試みである[31]。
かつて精力的に活動していた東京ウィキメディアン会 ([3])、関西ウィキメディアユーザ会 ([4])、北海道ウィキメディアングループ ([5][リンク切れ]) などの複数の有志ユーザ会は、その活動を大幅に縮小しており、現時点ではその実態がまったく確認できていない。ウィキマニア台北2007の頃に精力的にインターネット上で情報を発信していた実名ユーザも、2013年11月現在ではウィキペディア日本語版について、何らかの発言を行った痕跡は見られない。
2015年 - 2016年
ウィキペディア日本語版の記事数が2016年1月19日に100万項目を越え、産経新聞、東京新聞などに報じられた[32][33]。
2023年 - 2024年
2024年1月、ウィキペディアタウンについての書籍『ウィキペディアでまちおこし みんなでつくろう地域の百科事典』が刊行された[34]。
- 1 ウィキペディア日本語版とは
- 2 ウィキペディア日本語版の概要
- 3 課題
- 4 MediaWikiのアップグレード
- 5 脚注
- 6 関連項目
- ウィキペディア日本語版のページへのリンク